牛にひかれて善光寺参り

15年まえくらいのことです
ふっと、自分のしてることが、こんなことかなと
頭に浮かぶ出来事がありました


会社の経営者になって、社員、特に若い社員を育てるのに
自分のエネルギーのたくさんの割合を使ってやってると
自負していました


ところが、なかなか、うまくいかないのです
その対象の社員のことを、考え、よかれと思って行動することが
どうも、その社員本人にしたら、どちらかといえば迷惑
いらないこと、というようにとれるのです


どうも、社員指導ということを、思う時に
どうしても、自分自身でやってもらうということが
必要なことと、まわりから後押しして、できるようになること
両方あるように、感じるのです。
その、どうしても自分自身でやってもらうこと、このことが
できなくて、あっぷあっぷしてる社員に手をさしのべて
(もしくはさしのべてるつもりで)その助けがうまくいかないことを
なげいていた、自分がいたように思います


そして、そのことは、そのとき、読んでいた河合隼雄先生の著書のなかの
記述になぞって、牛にひかれて善光寺参り、そういうことに近いと
思ったりしたのです
河合先生の「カウンセリングを語る」に、「死ぬ準備をしに来た人」
という話で、若いお嫁さんの愚痴を言いに来る、初老のかたという
設定で話がでています
河合先生は言います
そのお嫁さんは、あなたにとっての、牛ですと


自分にとって、社員はその牛に近いと、感じたのです
全然、感覚でものをいっています
おかしいとも思いますが
なぜか、こうして、悩んだり、うまくいかなとなげいてる自分が
客観視できる一瞬があったように、思えたのです


強欲な人がいて、あるとき、牛がてぬぐいを、角にひっかけて、いってしまった
そのてぬぐいを、とりもどしたい、一心で牛をおっかけていくうちに
長野の善光寺にまで行ってしまう。そうして、最初はその気は
ないのだけど、ひょんなことから、宗教的体験をする・・・


若いときから、人のことを、指導してみたいという
気持ちがありました。ずいぶん、指導されるほうとしては
迷惑なことです。指導したいという気持ちで、それが先走って
やるのですから


そういう、こちらから、押しかけ的な指導というのは
どうもうまくいかないようです


それでも、牛を追いかけるように、どうにかしてみたいと
思ってるうちに、気づく事もあり、ここまできたように思います


気づいたことのひとつは、↑にも書いていますが、いろんなめぐりあわせの
なかで、自分がもしくは、そのときであった人が、その対象の人に
してあげられる、なにかしらというのは、極めて限定したことだ
ということです


いろんな人がいて、いろんな状態のことがあります
そのいくつもにも、神様のように、助かることを
打ち出の小づちからだすように、与えるなんてことは
できないものです


だから、一定のところは、生活がきちんとできて
自分から、自分を変えたい、成長したいと思ってる人を
指導するというのが、できることなんですね


牛にひかれて、善光寺参り
私には、そんなふうな、感覚で頭に入った言葉です