変わるもの変わらないもの

このところ、昭和の時代というか、自分が10代であるとか
感じた、いまでいえば、古いものにふれる機会があって
その素晴らしさをあらためて、思ったりしています
昭和といわず、数十年、数百年をへても、評価される
古典性といったものを、もったものって、ありますね
残ってる、評価され続けてるということが、ひとつの証明に
なってること


日本の美しさ。そしてその美しさを受け取れる日本人の
感性。これは変わらないものとして、存在すると
いっていいのではないでしょうか


黒田清輝という画家について、4月に展覧会をみたときに
裸婦像の扱いのことを、テレビで解説を聞いて、ちょっと
目からうろこということがありました
その解説をした、美術評論家さん(学芸員だったかも)は
ヨーロッパでは、ヌードを、アートとして扱い続けて
これは芸術なんだと、年月をかけて、そういう文化を作ったという
話をしていました
なんというか、日本は、女性の一糸まとわぬ姿を、絵にしたりすれば
それは春画という分野で、とらえたといいます
ヨーロッパでは、いってみれば、無理やりというか、文化に高める
ということを、ヨーロッパならではというか、どうやったかはよくここでは
語れないけど、みんなであえて、高めていったということ


黒田清輝が裸婦像を描いて、これを理解というか、認知しなければ
ヨーロッパの文化に追いつけないという、ような、扱いをしたといいます


いま、日本で裸婦像をみて、アートだということを、知らない人の
ほうが多くなったゆえ、これは、公序良俗からどうなんだと、いま
騒ぐ人なんていませんね


日本人は、実は変わってはいないのですよね
アートだと知ってる、ヨーロッパではアートとして扱われてるのを
知っていて、だから、それを自分の感性でどうということでなく
人が評価してるから、それでいいかという、態度をとってるのでしょう


変わったということは、どうも、自由な発想はいいとか
プライベートなことを、尊重すべきといった、考えのもと
どうも、親が子どもをしつけるといったことが、さぼってる状況は
ありそうです


河合隼雄先生の「カウンセリングを語る」、これももう40年ほどは
たってると思うのですが、そのなかで、心のエネルギーを使うのを
さぼってるという表現があります


ひとりの人間として、向き合い、長期的にみて、これはどうしても
必要となったら、そのことを認識させることを、していく
だれかが、そうしたことを、しなければその人は、ずっと
自分のやってることを、客観的に感じるということ、いまやってることって
人に迷惑をかけてるのでは?であるとか、そうした視点をもてないまま
過ぎてしまうってことがありそうです


個人が尊重されるのは、大事なこと
それと同時に、一定の厳しい目をもって
ひとりの人間として、やるべきことを、してるのか
そういう視点を忘れないということが、大事。


人間が生きていくために、どんな視点をもたなくてはならないのか
「あるべき姿」を忘れないために、どんな生き方をしていくのが
正しいのか?
そういう、問いを持ち続けることについて、「変わらない」日本人として
生きたいと思います