見るということ

横浜美術館で、開催中のメアリー・カサットの回顧展が
なかなか、よかったです


「桟敷席にて」という作品にでてくる、女性がいいです
解説に、「みられる存在」としての女性でなく
自分で見る、主体的に見て、感じる、評価する人間としての
女性を描いてるという、趣旨のことがでてきました


ちょっと、遊びというか、描かれた絵のなかに、まさにその女性を
別の席から見てる男性が描かれています
ところが、その男性のことなどは、見向きもせずに、舞台を
見てる女性の姿。すがすがしいです


話がとびますが、信州安曇野の、碌山美術館荻原碌山
手記に、知的な女性といることの楽しさということがつづられていて
その生涯で、愛し続けた、相馬黒光のことを、想定してのことを
書いています
思うに、主体性をもった、知的な女性にあこがれるのは、男性にしたら
おおいにありうるというか、私だったら、やっぱりそうだよなと
思う、ところですね


メアリー・カサットは、そうした、知的な雰囲気をもった女性を
描いていますね


女性像というと、その「美」にどうしても力点をおいて
絵が描かれ、また評価されるということがあるようですけど
知的な美ということに、こだわったということもいえるかと思います


ドガが、踊り子を描いて、描くだけでなくて、それまでの画家が
してきたなにかを、超えていこうとしたということ
そのドガと親しくしていて、メアリー・カサットはそのドガ
激しさ、アートに命をかける姿をみていたのですよね


これも、メアリーカサットの解説のなかででてくるのですが
なぜ、あんな、偏屈で扱いにくい、ドガとつきあえるのですか?と
質問されて、「それは、私が自立してるからです」と
応えたということ。なんて、誇り高い気持ちでしょうか?


アートをみて、アーティストの、生き方にふれるということは
自分にエネルギーをもらえるように思います
主体的に生きるということは、どういうことか
確かめ、アーティストがしたこと、そのものはできなくても
気持ちは、少なくとも劣らないという姿勢で、生きていきたいです