手で考える

ロマン・ロランは、彫刻家、高田博厚について
手で思考する人と、言ったとのことです


長野県、安曇野市にある、豊科近代美術館の常設展で
高田博厚の、作品を見ることができます
たくさん、のトルソー。
トルソーをみていて、女性の女性としての、美しさの凝縮された
姿なのか、って、あるとき、気が付きました


なぜ、彫刻家は、いい作品を作ることができるのか?
いま、あることから、食感ってどうやってつくられるのか
ということを、調べていて、手というのは
たとえば、芸術家がそうのように、また、熟練工と呼ばれる人が
機械では、みつけられない微妙な凹みを、手でわかるといったこと
そういうようなことが、できる要素が「手」にはあるという
記述にふれます


瀬戸焼の、窯元の作家は言います
縄文時代に比べたら、現代の人間は、手の感覚という
意味で、確実に退化してるのですよと


縄文時代の、あの複雑な模様のものは、手の感覚だけで
作ったのだという話になり、むむむ、と思ったのです


手の感覚って、なんなんだろうと、思います
目で見たものを、手で表現する
これはほんとに、すごいことではないでしょうか
上野の、国立博物館にて、いま、「ラスコー展」
というのがあり、クロマニヨン人による、壁画が
みれるということなんですけど、壁画が精緻なことに
驚いたという話を聞きます。(残念ながら、まだ行けてないです)


手で考えるというとき、その手の感覚を、日本人は
大切にしてきたのではないか?と感じることが
うつわ、をみてまわるうちに、感じました


鳥取県、岩井窯の山本さんには、うつわは使ってこそその
よさがわかるんだよと、教えてもらいました
そこで、気に入った、作家の作品はできるだけ
使うように、しています
前は、こわしてしまう、恐怖が先にたって、使わない
ということにしていたのですが、使うこと
それだけ、言い換えると、自分の行動に緊張感を
もっているということにもつながるかもしれません


さて、手で考えることって、できるでしょうか
手の感覚を鍛えることって、できるでしょうか
人間、生きていて、なにかしら、自分を高めていくということを
ずっと、していきたい、と思うのは、自然なことだと
感じます
はたして、これから、できるでしょうか?