学び

先週、メールに書いた、わが社のいま取り組んでることの
説明のなかに、「学び」に対して、自分はどう向き合うのか
そういうことを、書きました


学ぶということは、いい、素晴らしい効果があることですね
自分が学んでる、学び、自分のある部分を高くできてる
という感覚が、「生きる」ということについて、前向きになっていける
という、いい循環が始まる、そういう感覚があります


ここで、循環と書いたのは


よりよく生きたい⇒なにか、視点を決める⇒その視点について、学ぶ
⇒実践で、学びの効果がでる⇒生きることに前向きになるつまり
よりよく生きようとする


こういうことですね


当該のメールを書いた、数日前に、別の社員Iさんのいまを
レポートした、メールのなかで、Iさんとのやりとりで
ぜひ、「古教照心」を実践してほしいということを
言いました、と、書いてます
古教照心、あることを、考え続ける、そういうときに
古教、古典となってる、ということですが、ここは拡大解釈して
似てるテーマで、本を書いてる人をみつけて、文献にあたること
としています


そうなんです。自分だけで考えていては、偏屈になってしまいます
だけど、人の考えに、従うだけというのも、自分で考えるという
ことのトレーニングにもならないし、だいたい、判断という
ことがあやしくなります


社会人になって、思うのは
どこかに、正解が書いてあるような、課題に取り組むということは
ないというか、そういうこととは別の次元になるという
ことなんですね


正解のない、課題について、自分で、生き方と結び付けて
対処、というか、解決というか、方向と決めて、取り組む
だんだん、ある形のものへ、にじりよっていくというか
作り出す、という、行為を繰り返す


正解のない、課題


学び続けるから、わかる、方向、形


いま、若い人によりよく生きようとする、動機づけをしたい
そのために、なにをするか?


言葉だけでは、頼りない
いっしょに行動し、いっしょに、感動する
そういうことが、してみたいと思い続けています