教えるなら高い心が必要

一般の人より、優れたところがある人は、その分一定の高い心をもって
ふるまわなければならない。
心技体という、日本の伝統的な考えのなかにも、見ることができるこのことは
大事だ。技や身体が成長しても心が伴わないと、通じない。信用されない。


実際のところ、身体は大きくなった、何か仕事をして仕事を通じての技術は
一定のところできるようになってきても、心が低いレベルのままだってことが
多いということ。残念なことに、ちょくちょく見かけるのが、技術者は確かに
技術を身に着けるということ、その分そうしたことをしてない人より努力した
といえるだろう。だけどどうかすると、技術を身に着ける努力をしたら
その分他をさぼっていいというように、ふるまう人がいる。


人に教えるという行為は、とても高いレベルでの心が必要だ。寛容の心
公平の心、他人を見るあたたかいまなざしが必要だ。そうした心のありかたが
その振る舞いに必ず出てきてしまう


自分の立場に、その立場からくる権威的なものにのっかってとか、知識の多い
というだけで、教えるということができるわけではない。
スポーツの選手で素晴らしい活躍をした人が必ずしも、いい指導者として働けない
ということを見ても、教えるということが、教える側の技術の高さと必ずしも
一致しないのは、明らかだ


結構大変だなぁと思えると思う。このブログに何度か書いているが
はじまりは、相手をよく見ることだと思っている
よく見ること、見守ること。まず人間って、人から期待されてると感じると
こたえようとしてくるのだと感じる。


そして、教える側の人間性を豊かにもつことだと感じる
目の前の育ってほしい人が出すなんらかのサインにしっかり反応し
うけとれるか。どういうことが育つ側からしたらとっても大切な
ポイント、はげみであるのか。もうひとつその逆になれば
逆のことが起こるということも、認識しながらやることだ


河合隼雄の言葉を借りれば、人間性を豊かにするのには、小説を読み
映画を見たりということがとっても大事だとのこと。
いまの自分に収まらない、自分が理解できないような人の生き方が
語られていて、それがとてもよく書いてあることがあるという


俳優がいい演技をするのには、その演じる対象について、いかに共感できるか
ということが大事だという。指導する人もその育てようという相手に
共感することって大事だ。ここに何度も言ってる「学びあう姿勢があること」
ということがクローズアップされる。相手がどんなふうなことをしたら
「学べる」のかということは、いっしょに自分も学ぶ側に立ってみるから
気づけることが多いと思ってる


人を指導しようと思ったら、自分もいっしょに育たなければならない。
育ち、育てられ、これが普通になったら、もうこわいものなんてないって
感じる