うつわの楽しみ

先々週、四国の砥部に出向いて、窯を訪ねてみた
うつわは使ってこそ、よさがわかる。またただ見るだけでは
得られない、いいものを使うからこそ、うけとれる
このひとことは、鳥取の岩井窯の山本さんの言葉だ


山本さんは、浜田庄司のうつわをどんどん使う
という話がでた。いいものは使うのだという
そして、山本さんのところで求めた、土鍋は我が家の大事な
調理器具で、湯豆腐をはじめ、活躍している


うつわの楽しみを知ると、なにか豊かな気持ちを味わうことが
できると思ってる。うつわにいわば「ほれる」ことは
自分の心が豊かになることと、同義だと思ってる


料理を作っていて、どんなうつわで食卓にだそうか、迷ったりするのは
楽しい。「選択肢」があるということが、うれしいのだ
そして、迷ったときの感覚を持っていて、またうつわを見に行ったときに
なにか、手にしっくりくる、うつわをさがしたりというのも
また楽しい


今年の夏に、家族ぐるみで親しくしてる仲間が、夫婦で我が家にきてくれて
今年訪ねた、窯の話をしながら、やあやあと、楽しく食事をした
もちろん、料理は手料理をふるまった。窯元で聞いた話をして
自分でもろくろをひいたりする、そのときの仲間は、その話を展開していた
釉薬をさわらせてくれるって、そのことだけで、すごいじゃないですか」
「まず3年やれっていうのは、3年やるとなにか見えてきたら、これまたすごいですよね」
「手は退化してる、よく感じることです」


うつわを、楽しむ心っていうのを、おおげさにいえば
日本人の美意識のいろんなところに結び付けて、思ったりしてる
百人一首を残して楽しむ、文化の高さをもつ、日本人の美意識の
結晶といっていいものに、うつわはあるように思えてくる


百人一首といえば、松山を訪ねて、正岡子規記念館にて、子規は紀貫之
酷評したらしいことを、見た。子規はおそらくもう評価の定まってる人だから
それをみても、へーってなものなのだけど、生きてるそのときは
相当、物議をかもしたらしい。百人一首はそういう意味でも、大きな存在だ


実際、紀貫之正岡子規も、ここで評価するほど、勉強もしてなければ
楽しむ心をもつまで、親しんだりはしていない。唯一うたということで
いえば、万葉集のいくつかは心をうつなと思ったりするくらいだ


うつわを、地方で一心に作ってる人に、日本人の素晴らしさの
ひとつのいい形といったことを、思う
自然を愛し、人と人の心をつなぐ、日本人の素晴らしさを思う
そして、うつわ作りが、産業として根付いてるということを
思った時に、日本の、日本人の文化の高さということを
思う


できれば、いいこと、うつわのよさを、人に伝えられるような
そんなことが、少しだけでいい、できる暮らしをしていたい
伝えていくということで、またいろんなうれしさ、いろんな出会い
そういったことが、ひろがるイメージは、なんともうれしい


食事がおいしく食べられる。そのとき、気に入ったうつわがある
そうした、ちょっとしたことが、うれしい、前向きな気持ちをもった
自分が好きだ