母性と父性

尊敬している、河合隼雄先生は、著書のなかで日本は母性のとても強い国ですという。
男性も女性も母という存在が色濃い。ここで比較対象として、西部開拓時代を
ひきづってる、父性の社会のアメリカとはずいぶんちがうのだという。
実際のところ、私はアメリカで生きたこともないし、行ってなにかしたことも
ないので、ほんとうのところ、実感として、その差というのはわからない


ただ、ものごとの決め方は、日本では契約だからきちっと、ばっさりとやる
というのでは、あまりなくて、話し合いでずるずるとやるのは知ってる


河合先生の言葉に従い、ここでは、母性の強い国、日本を前提としておきたい
その母性の強い国で、人と相対して、甘くやると大甘になってまずいときがあるという
こと、これは、実際のところよく感じることだ
いろんなことを、甘くみたり、甘やかした状態で物事がすすむと、大変まわりが
迷惑な状況が起こる


父性と母性、両方がないとうまくいかない
しかしながら、同じ人が父性と母性、相対した人に対してそれを両方だして
いけるというのは、とっても難しいのでは、と思う


人を指導するということを思うとき、しばらく母性を意識してやってきたつもりだ
それは、考えのもとに、人間、最後は本人がやるかどうかで、いろんなことに
気づき、その最後にいい選択ができるように、配慮する、その点こそまわりの
人がその人に対して、できることではないかと思ってきたということがある
こうして、言葉で書くとそれはそれで、正しいのだという思いもつのる
しかしながら、ごく最近の反省で、母性を意識して、しからずに、ほめること中心で
やっていると、もちろん、人にもよるのだが、自分を過大評価して
生きていく人材が育ってしまうという恐れを感じている


ひとつの考えとして、誰しも、自分を過大評価するときがあっていい。
でもそれは、いっとき、にしておかなくてはならない。あるタイミングでは
身の丈にあった、反省をしていくということがセットでないと、うまくいかない
自分を過大評価して、その過大評価した自分が自分で見えなくなって、ついには
自分の存在を自分でコントロールできなくなっていくというこわさを
感じた


このこわさを知ったとき思ったのは、身の丈にあったことを知る機会を
作るって、大事だなということだ。ひとつ、ここで思うのは
指導する側に父性も前面に出す必要があるということです
もしかしたら、短絡的かもしれない。父性をだせば、解決なんて、単純すぎる
かもしれない。またこういうことで、試行錯誤は許されないのでは?と
もうひとりの自分がアラームをだす。
確かに、余裕はない。でもこういう根源的で、たとえば、本であるとか
他人から答えをもらう問題じゃない、考えを深めることは
やりながらでないと、答えをみつけることはできないのでは
ないでしょうか?


怖いことはたくさんある
でも、立ち向かって、やっていかなければ、すすまない
生きていけない