作家の目

本日の日経新聞、春秋は林芙美子の「めし」をとりあげて
昭和20年代後半という、高度成長時代よりまえのときに
女性の、なんという表現が適当か迷うが、荒っぽくいえば
専業主婦の、つらさみたいなものを書き出してることを
例にあげ、いまの時代、日本はまだ女性の職場における
いろいろが遅れてるという、主張をしてる


春秋では、多くの人の目が問題に目がいくまえに、作家は
家庭に入る女たちの悩みをかぎとっていた、と書く
作家の、時代を映し出すという行為は、すごいなと
思うときもある
これも、作家が小説、文章をとおして、凡人がなかなか
気付けないことを、伝えていくという役割のひとつと
思ったらいいのか


昨年暮れから、伊集院静の、ノボさんという小説を読んで
正岡子規の人間にふれたような気がして、この小説も
安部龍太郎の、等伯なども、フィクションなことは認めつつ
歴史に足跡をのこした、天才といっていい芸術家の人間としての
魅力を伝えてくれてると、私は称賛したい


アーティストの人柄にひかれるということ
悪いことではないかもしれないが、どうも自分は作品そのものより
その生き方、人生を思う傾向がある
もう10年近く前、四国の金毘羅様に、御開帳の襖絵を見に行ったことがある
せっかく、四国にいくのだからと、事前にちょっと調べて
イサム・ノグチという彫刻家が拠点をおいた、場所が例の
平家物語の舞台のひとつの、屋島の近くにあることをみつけて
イサム・ノグチの作品を見に行った。そしてその彫刻家の伝記を
事前に読んだ。とても興味がわいて、いまでもイサム・ノグチ
結構好きなアーティストのひとりとなってる


でも、とここで、ちょっと気持ちがゆらぐ
というのは、実際伝記などで、いわば、つまみぐいというか
そのアーティストがどんな人かということをみてから
作品をみたりすると、どうしても、つまみぐいした印象が
その作品をみるときの気持ちを、フラットでなくすかもしれないという
ことがある
しかしながら、一方では、つまみぐいかもしれないけど
一定のところ、興味を喚起するということがあると、いわば
自分の気持ちのなかで、見ようという感覚が、活性化されて
深く見れるということもあるかもしれない


おそらく、これは両方正解なのですね
迷うところです


およそ、情報というのは、誰かの目、誰かの意識がはいったもの
として眼にとまるということが、ほとんどといっていいかもしれない
アートをみるときに、フラットな自分でいたいと思う
アートをみるときに、どうしても解説だとか、なにかしら、ガイドに
なるようなものを見たいという衝動もある
でもそのガイドは、やっぱりガイドを書いた人の主観がはいるものなので
と、ここでも迷う


見慣れてくると、アートの作品は、やっぱり自分が好きかどうかで
みればいいんだって、思えて来て、そういう思いから
やっぱり、できるだけ自分が素の状態で、受け入れられるものを
多くしたいと思いが及ぶ


活字になったりすると、ああということで、一定のところ
やっぱり権威のある人にしたがっておこうかという、気持ちも
でるのだけど、アートに関することでいえば、その人がなにかを
書いていても、それはその人の主張だと、わりきればいいということ
かもしれない