アートと生き方

安曇野碌山美術館に、最初に行ったのは、十年と少しまえになる。
はじめて見たとき、作品はあまり目にはいってこなかったのです。
夭折した碌山、ずっと恋い慕った相馬黒光をモデルにした「女」という作品は
おそらく見るものの心をうつ。ところが、鈍感なのか、私には二度目、三度目と
みるうちにその良さが、じわじわ目にはいってきたのです


親しい人から聞いた話。恋愛というのは、いわば人生の宝物なんだよと
心から自分を入れ込んで「燃えるような」恋愛を経験できるってほんとうに
すごいこと。素晴らしいことなんだよと


碌山は親しくしていて、いわば兄のおうに慕ってる人の奥さんとして黒光に
会う。美しさももちろんだったろうが、その知的なことにどんどんひかれる
黒光は、文覚の話を引いたりして、碌山の気持ちをなだめたりしたのだという。


画家を目指していながら、ロダンの作品にうたれ、彫刻家をめざすようになる。
ロダンに会って、ロダンからあなたは私の弟子だと言ってもらえた。
ロダンと碌山。共通するのは、作品がキューンとみるものの心をうつこと
だろう。作品にその生き方が出るのは、当然なのかもしれない。一途に思う
女性への思いが作品に込められてると感じるのだ。


人が人を思うということは、素晴らしいことだ
その高さ、その深さは、とてもとても想像を超えるものがあって
いつしか、恋に恋するように、とりこになってしまう。恋はきっと
かなわぬこと、そのことがまた気持ちを燃えさせる要因になったりする


「女」を作って碌山は血をはいて、命を終わらせるという。まるで
ドラマでしょう。自分の命を注ぎ込んだ、作品ができて、その燃える
炎に自らとびこむようにして死んでいく


若い人が、その若さゆえに、どう生きたらいいかと思い迷う
なんでもできると思うような、自分の身体、とエネルギーがある
そのすべてを注ぎ込むものを見つけたいともがく
ある人は、アートに。スポーツに、勉強に、恋愛に。いいえ
バイクだって、あるでしょう。私は仕事だったかな
なんでもいい。自分をかけて進めるものに、「かける」
そうしたことが、まさに「生きる」ってことで、人間、
そんなふうに「生きれれば」ときに感動できるようなときに出会える


鋭い感性をもった人ほど、生きる力を太くしていかなければならない
そうしなければ、その感性がうけとった波、風が身体をかけめぐるのを
ささえきれない。
碌山は、おそらく嵐を身体のなかに持ち続けた。嵐が作品となって出てくるとき
碌山の身体をこわしてしまった。


でも、いま作品を見ることができる。碌山の生き方を少し、知ることができる
あこがれる。
同時に、力強く生きたいと思う