五島美術館

本阿弥光悦という、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した人の
書と茶碗を、五島美術館に見に行く。相当才能にあふれていた
人らしく、徳川家康から、京都の北の地に、いわば、芸術村といっていい
場所を与えられて、そのディレクターのように、活躍したと聞いた


ごいっしょした、書道に詳しい方が、「草書」の教科書的な存在なんですよと
教えてくれた。展示のなかで、はあ、これはきっと教科書といってもいい
と思えた展示がある。嵯峨本といって、京都の嵯峨には、印刷をするお寺関連の
場所というか、産業といっていいかがあったらしい。そこで印刷をされた
本を嵯峨本というようになるのだという。ちなみにこの時期の印刷技術に
ついて、かなり発達した時期という記述も解説に見えた。活字印刷が
できるようになったという。きっと画期的なことなんだろう


その活字印刷の例として、新古今和歌集がたいへんきれいな装丁で作られたのを
展示があり、その字が光悦の流儀(そのままではないようにも思う)ということ
らしい。


実際のところ、草書って、見ても解読はできない。解説と読み比べて、ああ
一部がわかるというのがやっとだ。それでもたとえば「楷書」のカチッとした
字を見せられるのとちがう、あたたかみや、表情はちょっとは感じることが
できる。思うに、この光悦というかたは、人間くさく、とてもフレンドリーな
人だったのではと、勝手に想像する


新古今和歌集、これ、いってみれば和歌のひとつの最高峰といっていいか?
どういう表現が適当なのか、わからない。なるだけ私ができる客観的な
言い方をすると、一定の時代をさかのぼったとして、そのころの文化に親しんでいて
かつ、和歌自体に好意的な見方をしてる人にとっては、まさにすごーい、宝物に
なりうるものといっていいか?
そうした和歌集が、たいへんきれいな装丁で、印刷されて本になってる
これは、もうその買った人の宝物ではないのか?
大事に大事にかざるとか、本当に親しい人にだけ見せる、もしくは見せびらかす
そんなものにちがいない


こんなふうに、思うと、先月松山にいって、正岡子規記念館で見た、解説から
正岡子規は、紀貫之のことを酷評していたということ、このことって
かなり、「とがった」行為に思えてくる。まあ五島美術館にいかなくても
それは、ちょっとは想像したことだし、解説にもそれっぽいことは
書いていたのだけど、あんなにすごい、昔の宝物的なものを
みたあとに思うと、、そのニュアンスとして、ほほう、すごかったんじゃないかなと
これまた想像する。


五島美術館は、日本の伝統文化の素晴らしいところを、教えてくれるいい場所に
なってるようだ。ご存じ五島一族のコレクションを中心にみせてくれてるという
ことなのだけど、あそこまですごいと、個人としてというより、なにか文化貢献を
する、企業としてといっていいかもしれない


五島美術館に行くと、恒例なのだけど、庭園も散策する。行った日は夕日が
とても美しかった。一番したのほうまで下りて、位置的には、夕日を背にしながら
本館の方向にもどりはじめた、そのとき、木漏れ日が落ち葉を染め上げて、染まった
落ち葉が赤くきらめき、その一瞬の美しさは、ほんとうに得した気分が
味わえた。計算してそんな場所を作ったとは思えない。偶然かもしれないけど
木であり、そのときの空気、光が作り出す、いとおしい瞬間ってなんて
いいんだろうと思った


書やお茶碗は、ふーんと通り過ぎてしまったのだけど、庭の空気と光が
忘れられないひとときを、プレゼントしてくれました