言葉では伝わらない

7月の頭に、かつてのミュージカルの仲間が亡くなったという
連絡があり、本当にびっくりしてしまった
通夜には、かつての仲間が10年いやもっと時間が経ってるけど
集まって、信じられないといって、別れを惜しんだ


当日は急な予定もあり、ばたばたと行って帰ったこともあり
数日してから、ご家族に手紙をだした
一日でも早く、家族のみんなに笑顔がもどることを祈ると
書いた


昨日その手紙の返信があり、3週間まえの出来事はまだ
自分は受け入れられない。このさきどうやっていきていこうと
思う。ただ、こうしてつながってる人のはげましや応援があると
思うと、しっかり生きていかなくてはと書かれている


大学生のころ、大事な仲間が虹を渡ったときに、読んだひとつの詩が
ある
詳細は書ききれないが
肉親として、亡くなった人を思うときに、おそらく一番やりきれなく
実をひきさかれる思いをするのは
なぜ、死ぬかがわからないときだということ。その叫び
苦しみを詩にたくしてる


あなたはなぜ、死に急ぐのですか
家族はあなたのことを思い
畑には、実りがあり、なによりも私はあなたのことを
ずっと思い続けてるのに
なぜ


この詩をひきあいにだして、仲間が虹をわたったことが
容易に家族の心に受け止められないということの
なんという、むごさ、大変な痛み、重さを思った


なんて書きながら、実際その肉親の人のリアルな痛みは
もちろんわからない
ただ、どうしてもそのごく一部でも感じたいと
けっこう長いあいだ思っていました


今回、亡くなった理由は病気なので、「なぜ」はひとつには
病気なのだと思えるかもしれない
けれど、おそらく肉親のかたには、なぜ自分の家族が若くして
病気でなくなるのか、やっぱり受け入れられない
ひとりの人間として、生きたその意味はなんだろうと
問い続けることになる


今回、手紙を書いて、ほんの一瞬でもいいご家族の人が
なんらかほわっとしたものを、うけとってくれて、気分が
かわることを思って、手紙を書いた
つらい、道筋を生きていくことになるその人に
声をかけたい。その思いだけだ


できることは、生きてるぼくらが少しでもしっかり
生きた、生きがいのある、日々を送ること。それしかないのですね