味わうという心の態度

例えば、景色を楽しむとか
絵画を楽しむとか、人との会話を楽しむであるとか
そうした、楽しめる、心の状態でありたいと
思う


料理で、味そのものということでも
そのときの、自分の状態で、味について感じかたが
変わるということがあると思う
同じ中華料理屋にいっても、そのときのメンツ、そのときの
会話の流れで、味が変わると感じる


できれば、会話を楽しみながら、余裕のある態度で
それを楽しみながら、しっかり、自分をみつめてる
いわば、客観的な態度でいる、自分ももっていたい
もっとも、この客観的な自分っていうのが、強すぎるのも
それはそれで、「素のまま」の態度でなくなる
という感じもするので、やっかいだなと思ったりする


いいことをいいと認める態度って、大事だなと
感じることがある。ただ、そのとき「いい」と感じてる
自分の心の状態であり、思い入れといったことは
必ずはいるのだから、いわば、前のめりにいいなと
思うことで、ちょっと、内容が頼りないものも、いいねいいねと
いいという方向にもっていきやすいということもある


その反対の、心配でいうとすると、何がいいのか
ということに、慎重な態度にて、これは、はたして素晴らしいものか?
ということに、「見極めよう」という態度で
望んでいくと、その高さという点について、だんだんあがってしまう
ということもある


一定のところ、いいものをいいといって、楽しみたいという
観点からすると、あまりそのいいなと思う、ラインを
あげないほうが、頻繁にいいねといえて、それこそ
楽しいとは思う


絵をみるということについて言えば、自分がまさに
手元においておきたいと思うかどうかで、その絵の評価を
すればいいと、好きなエッセイの、気まぐれ美術館にはあって
そのことを、思うようになってから、絵をみる態度が
とても、自由になった気がする
つまり、絵ってやっぱり、一般的?というか人がどう思うかというのも
気にしてみてる、自分があったわけで、そうすると解説を
読んだりして、それに意識して添うわけではないのだけど
影響されたりはしてしまう。そういうことが
自分がどう思うかということの邪魔になるように思う


絵をみたり、彫刻をみたり、景色をみたり
そうして、自分がいいと思えるかどうか
そうしたことを、しっかり自分で受け止めていようと
思う。
東山魁夷は、「目休め」といって、景色のいいところだけを
みて、ちょっとここがはいったら残念というところは
目を休めて、いいところをつなげていって、絵を書くという
そのことを、知って、さらに、京都を描いた、「年暮る」という
作品をみて、その同じ方向の景色をながめにいったりして
その態度の、すごいことを、感じた


京都には、東山魁夷が絵をかいたとき、そのものの、景色は
もう存在しないのに、京都の美しさを、それだからというか
残そうと思って、描いた絵が、気持ちをなごませる


心の態度は、素の状態を保ちたい
生きてる以上、前向きに生きるということ
まあ、若いときほどではないけど、そこそこ「前のめり」というか
前向きを大事に、心の状態も保ちたい
そうしたことを、感じながら、日々大切にしてみたい