河合隼雄先生の、「カウンセリングを語る」について
よく思い出す部分があります
ある人が、嫁と姑の問題にて、相談にきて
くるたびに、嫁の悪口をずっといっておられます・・・
この人がきて、話をしたとき、ああ、この人は死ぬ準備を
しに来た人だなと直感しました・・・
そして、あなたの問題はきっと、牛にひかれて善光寺参りということに
なるでしょうといいました
この話の、牛というところに、思いをはせた
いま、自分がとりくんでる、人材育成。こうやって
自分としては、心血を注いで育ててるつもりの
人間が、どうにも、自分の思うとおりには育っていないようだ
これは、どうしたことか
自画自賛すれば、こんなに、まじめに人材育成に
とりくんでいて、かつ、大学生のころから、教育とくに
対人援助といったことは、考えもしたし、実際、若い人の
指導なども、積極的に行い、やるだけでなく、有識者と
客観的な意見交換もしてる。いわば、自分は人材育成については
プロのつもりだ
それなのに、こんなに、てまひまかけて、ときに
その人と、時間をかけて、話し合い、お酒を飲んで
いっしょにいて、育つのを期待してる
しかしながら、思うようにはいかない
なぜか
いまから思うと、客観的なつもり・・・だとか
いろいろは、やってるつもりで、なかなか徹底できてなかった
であるとか、そもそも、やっぱりその人の気持ち、その人の
思いを受け止める自分の器が小さかったとか、思えることは
あるのだけど、その渦中にいるときはなかなか、気づけない
そんなとき、育てようとしてるその対象の存在は
牛にひかれて善光寺まいりの、その牛でしょうという指摘を
河合隼雄先生にもらった気がした
まず、大前提に、人を自分のおもうように変えるなんてことは
もっともっと、大変というか、「思うように」ということに
こだわるのであれば、そんなことは、できないと思わなくてはならない
もちろん、人は「いいほうに変わる」ということはありえるし
それがあるから、対人援助とかそういうことをやっていても
報われるということがあると思う
けれど、自分が思うように変えようは、そもそも、スタートから
して、きっとまずいというか、ずれている
人の話を傾聴する
このことは、ずっと、思ってきて、大事なことであるにちがいない
河合隼雄先生が指摘してるように、それでは、傾聴してる自分は
相手のいろいろを、うけいれるだけの、どれだけの器をもってるのか
そのことを、いつも反省し、その器を大きくするべく、生きなくては
ならない
ここまでくると、これは本当に人生をかけるべく、大仕事だと
気が付く
そうなんです。人を指導しようなんて立場にたってみて
ちょっと、少しでも客観的な態度をとれる人であれば、気が付くこと
それは、自分が指導たることを、なんらかして
相手になにかをしてもらおうなんてことは、ほんとうにやりだしたら
自分の人生をかけて、やらなければ、はじまらないのです
指導しようとしてる相手は、牛だった
自分はその牛にひかれて、どこまでいくだろう
そして、自分が牛を追ってるということを、
少なくても、気づいている状態にしよう
拡大解釈を続けてる、自分でした