善行寺

もう20年近く前の話です
社員旅行にいった朝、なかなか、思うように
指導できない、社員について、そのときとても読んでいて
気持ちがその本にはいった、河合隼雄先生の、「カウンセリングを語る」
という本から、思ったことがあります


牛にひかれて善行寺参りということを、例にだしていて
自分にとっての「牛」とは、まさになかなかいっしょにいて
指導だとか、会社にとって必要な存在になってもらう
というところで、うまくいかない社員のことを、思って
そう、言ってみたのです


その社員は、自分にとっての「牛」ではないか?
この人を、どうにか、いっしょに歩むようになることで
自分の人生の意味を、見出せるのではないか


ここに、ひとつの、間違いというか、自分の立場から
思う、思い込みということが見えてきます
確かに、「会社を運営する」という大義名分からすれば
「やらなくてはならないこと」と見えるのですが
そうした、ワクをはずしてしまうと、ようは自分の気持ちを
他人にぶつけてる、つまり、ひとりよがりな構図が見えてきます


会社を作るということについて、その立つ位置というのが
ぼんやりしてくると、なにをするのが「正しい」のかも
ぼんやりするものです


こうしたことを、経て、自分の都合のいい、また自分が
経営する会社に都合のいい、拡大解釈を加えて
現在に至るということがあります


牛にひかれて善行寺参り
つまり、なにか、ひとつこだわりをもって、人生の意味を
見出すといっていいでしょう
そういうことが、できる場にしようと言いました


人は生きる
人は、ただ、自然体で生きる、なんてことができたら
すごいことだと思うのですが、よくあるのは
やっぱりこだわりをもって、言い方を変えれば
生きがいをさがしながら、生きますね
そのこだわり、生きがいさがしのやり方を、いっしょに
やりたい。そういうことを、言い続けています


おせっかいなこととも、言えます
ただ、いま生きてる、20代、30代、40代もそうかな
そういう人に見えてない、なにかをいっしょにさがす
そういうことが、自分は少しできそうと思うのです


どうやって?
ここは、先代社長のやり方であり、それを、マニュアルにしてくれた
といっていい、河合隼雄先生の本があるのですが
なんといっても「傾聴」ということがあがると思います


人は、誰かとであって、いいやりとりをして
生き方に気づくのです
その誰かが、「牛」であり、気づいて、生きる意味を
知るということが、善行寺にお参りするということに
なると思います


先週は、善行寺で、なぜ、自分は「牛にひかれて善行寺参り」
この言葉にこだわるのか、そういう思いを、持ちました