牛にひかれて善光寺参り

河合隼雄先生のカウンセリングに、あるとき初老の
女性がきて、お嫁さんの悪口をいっています
カウンセラーは「聞く」ということを訓練されていますので
本当によく聞きます。そうすると、その女性は聞いてくれるのが
うれしくて、どんどん悪口を言います


女性にしたら、悪いのはお嫁さんで、カウンセラーの先生も
いっしょになって、それは悪い人ですね、とかいって
なにかいい手を考えてくれるのではと思ってると
そんなことはなくて、いい方法はありません・・・という
「牛にひかれて善光寺参り」ということがあります
そのお嫁さんはあなたにとっての、牛ですという。


この話が結構好きで、ブログにも何度も書いています。また
ごくごく親しい人との話にもだしていますね


同じ文章に、歳を取ってくると、「若い」というだけで
腹の立つものですということも書いてあります
ちょっとずつそんな気持ちもわかるようになってきました


牛にひかれて善光寺参り。ぜんぜん別の理由で善光寺に向かって
歩き出して、もとからは思っていない、ふとしたことで
宗教的な体験をするということ


実際、人生ってそういうことがあるのではないか?
いいえ、宗教的体験というのが、私は残念?ながら宗教には
あんまりなので、人生にとってなにかいい、気づきとなること
と、拡大解釈すると、実際人生はそのまま、ふとしたことで
気づけて、出会いがあって、ということ、それが人生と
言えるのではないか?


会社の経営という、自分には荷が重い、世界でもがいていて
なかなか、自分の気持ちが通じない社員に対して
その社員は自分にとっての「牛」なんだなどと、思ったことが
あります


そんなふうに思うと、まあ、ほしいところの数分の一だったり
するのですが、ほんのちょっと「客観的」になってる自分が
そこにみいだせたりしました


人と人。気持ちが通じて、なにか共通の目標にむかって
同じ目線で協力できたり、というのは素晴らしいことです
それはまさに企業の原点といっていいことかもしれません


そうなのですが、はい、協力しましょう、同じ目線を持ちましょう
はたして、そんなに、うまくいきますか?


やっぱりなにかしらの、触媒といったことが必要ということも
あるでしょう。それから、相手をよくみて、相手の話を聞いて
まずは受け入れる、そういう人間としての基本といってことが
気になります


協力してほしい、いっしょにやろう。そう思うのは
もちろん、大事なことです。だったら、どうやるのか
相手がどうしたら、いっしょにやろうとなるのか、やっぱり
工夫なりほしいところですよね


若さというのは、まずは「お試し」でもやってみること
それができるということにもなるかと思います
そういう意味なら、まだまだしばらくの間は若さを持ち続ける
そう宣言したいですね