牛に引かれて善光寺参り

牛に引かれて善光寺参り
この言葉を、河合隼雄先生の著書からみつけて
心に留めておきたいと思いました


河合先生は、カウンセリングを行う人で、その相手として
若いお嫁さんとそりが合わない、といって、相談にきた
女性に対して、そのお嫁さんは、牛に引かれて善光寺参りと
いいますがその牛ですねと、話したとのこと


この文章を読んでいて、確かまだ30代だった自分は
この例を自分にあてはめるとしたら、なかなか自分の指導が
うまく伝わらない社員の存在が、自分にとっての牛なのだなどと
思って、ずっとそれも一理あるなどと、思い続けてきたのです


ですが、いいえ、たぶんそんなことはないというか
それは、ちょっと自分にあてはめるのは、乱暴なんだと
思い始めました


日本人にとっての、「神」という存在について
そんなふうに、牛なるものをもって(ここでは、善光寺という
仏様ですが、ある種の神といっていいかなということで)
神に近づくというのは、やはり誰にでもはもちろん
相当数の人にあてはまるのかというと、そんなことは
ないのではないかと思うこと


もうひとつ、今の自分と30代の自分を比べて、ちがってるな
ということが、社員の指導は今も30代でも、自分のなかで
たいへん重要とは思っていはいますが、そのなかなかうまく
いかないこと自体が一番の悩みかという、さすがに今は
一番の悩みではなくなってるということもあるのだと
思うのです


重要ではある、でも悩みの対象としては、順位はさがったということ
つまり、考え続けていて、対処の仕方も自分なりにはやっていて
それが、うまくいかないことはうまくいかないこととして
あるのですが、悩むかというと、それを受け止める自分も
できたとでもいいましょうか?


そうした、指導がなかなか思うようにいかないこと
これは、事実として受け止めるし、対応もなにかしらやるのですが
そのことが、一番頭を悩ませているかというと、いわば
時間をかけて、対処することとして、位置づけ、悩んでる
という状態ではない、という言い方もできるかも
しれません


牛に引かれて善光寺参り
今はその牛という存在について、あれこれ考え続ける
そういう気持ちにもなっています


仲のいい、友人に、この河合隼雄先生から、受け取った
牛に引かれて善光寺参りの話をだしたら、十牛図などで
(中国の古典ですね)うしには、次々移り変わる展開を
比喩的に例える印象があるよという話をしてくれました


ああ、牛に引かれて・・・の話も全くそうなんだなと
思いました


おそらくは、一定よりまえの日本人に共通した感覚として
牛という存在、そして善光寺というだけで、ありがたい仏様
ということがあって、牛に引かれて善光寺参りという言葉が
あるだけで、ひょっとしたら、自分もいい体験ができるのではないか
そんなふうに思える、そんなものがあったのだと感じます


そして、それが一定のところ、日本人に存在することが
真実なら、自分も信じる側に居たいなと、思っている
今の気持ちです