牛に引かれて善光寺参り

河合隼雄先生が、「カウンセリングを語る」の
なかで、嫁と姑の問題を書いています
この話は、ブログに何回か書いたのですが、とても
気になる文章なので、ここにも書きたくなります


牛に引かれて善光寺参り


なんて不思議なことでしょうか?
強欲なおばあさんが、手ぬぐいを角にひっかけて
歩き出した牛を追いかけて、信州の善光寺にお参りをした・・・


あ、もしかしたら、いま自分が悩んでる人材育成の
対象の若い人って、自分にとっての「牛」といっていいのかも
しれない


そんなふうに、自分自身の行動をなにかに例えて
つまり、絵として、自分の外にだして、眺めてみたとき
いままでと違う気持ちで、自分の行動ということを
知ることができたのです


一般化と特殊化
具体化と抽象化


実際、物事をみてみて、自分のなかによくいれる
つまり、観点を変えながら、どうすべきか考えるとき
こうした、俯瞰してみるということがとっても
大事なのですが、凡人にはなかなかできるものでは
ありません


営業の話でいえば、目の前の商談をとるかどうか
気持ちがいってるときには、その商談が起こった
とか、その商談を当社が取り組んでる、そうした
背景といったことに、なかなか「目」を向けられない
それが、普通の人と、思います


人を指導して、チームを作っていく
そうしたときに、そのチームがどこを目指していくのか
これを、決めるということがすごく大事な、大きな一歩と
なるわけです


河合隼雄先生が、カウンセリングした対象者は
「死ぬ準備をしに来た人」と、河合先生はとらえたと
書いておられます


30代で、この本を読んだときに、「死ぬ準備」という
言葉にぎくりとしたものの、実感として、自分の身近な
ものとして、とらえることが、できませんでした


いま、50代後半になり、数年前に親を見送り
ときどき、自分がリアルに、濃く、つきあった人が
彼岸にいったということが、起こると、すこしずつ
死ぬ、ということ、どうしたら、平静で(は、むずかしい
までも、それなりに覚悟して)虹を渡っていけるのか
そういうことを、意識せざると得ない、そんな気持ちが
あります


人生、生きていくということ
欲、だったり、こだわり、といったことが
ずいぶん、まだまだ自分はまとってるといっていいと
感じます
だけど、なにかがあって、そうしたこだわり、欲と
いったことから、もしかしたら、距離を置くことが
できるかもしれない。そんなふうにも
思い始めます


なにかにとらわれて、私たちは生きています
とらわれてること、ときには、笑い飛ばして
生きてることそのことが、いいことなんだって、思える
時間を大事にしたい、そんなふうにも、思えるタイミングが
あります


ようやく・・・かもしれませんが。