河合隼雄

NHK 100分で名著という番組で、河合隼雄がとりあげられていて
とても、興味深く見ました


ひとつの解説してるところで、ふむふむと思ったのが
普段、デーンとしてる(はずの)自我が、コンプレックス
(悪いなにかの複合体)により、ゆさぶられる
というところです


文章で書くと伝わりにくいのですが、番組ではイラストを
動画みたいに、動かすことで見事にイメージを
伝えていました
このあたりが、「映像」というものの、すごいとこといっても
いいと思います


自分にあてはめてみると、自分という、感覚、自分を司ってる
意識といっていい、自我なるもの
これが、私、長澤哲也でいうと、ここ2年ほどで、父、母を
亡くす、そしてその葬式など、自分の責任でするという
体験を通して、やはり、「生きるということの、大変さ」
からはじまり、人が死ぬ、という大きさ
家族の存在、家族を亡くすという、荒波といっていい、神定の乱れ
そういったものが、「コンプレックス」となって
自分の自我をゆさぶってるのを、確認することができました


じゃあ、仕事では?


そうなんです
自分は技術者になりたい
そういう、シンプルで、まっすぐな気持ちを育てるということが
若い、入社して間もない社員には大事です
そのことが、うまく育って、確かに自分は技術者として生きてるぞ
という自意識が生まれる中、たとえば、先輩だとか上司といった
人が、うまくタイミングをとらえて、あなたはこういうふうに
努力することで、いい感じで、育っていける、その存在を認められる
方向へ行けると、導いてくれたりします


この、ふたすがとても大事と思えます
つまり、まず、自分自身、まっすぐに、「こうなりたい」と思ってること
それを、タイミングをはずさず、そうそう、それにこんあふうに
プラスアルファの努力があれば、あなたは、認められる方向に行くよとの
「後押し」


これが、残念なことに、理想どおりにはいかず
本人が、あれ、こんなとき、どうすればいいんだろうというときに
大事な一言がなくて、効果的な一言を言えず、したがって、本来
やるべき努力の方向とちがうことを、本人がしていても止められず


そういうことが、くりかえされると、おそらくは、本人は
最初の「シンプルな」状態は失われていくといっていいのでは
ないでしょうか?


シンプルな状態であれば、いい助言、いい指導に反応していけるのに
そうした、機会を逸していると、そうしたこと自体に気付けなくなる
そういう危惧を感じます
いわば、「放っておかれる」
そうしたことが、自分の気持ちの不安な加減、またコミュニケーションが
いい感じでとれてないことから、くる情報の不足、ということで
いろんあきしみを産んだりする?のではないでしょうか
そこが、コンプレックスとなって、自分自身をゆさぶってくる
ものとなるのではないでしょうか?


河合隼雄は、人間の心を育むということは
植物を育てるのに、似てると、著書で書いています
ついつい、触りたくなりますが
触るのでなく、肥料はまわりにまいて、じっと育つのを
待つ。
もちろん本人からのサインは見逃さない
決して、放っておくのではなく、見守る
そういうことを、していきたいですね