牛にひかれて善光寺参り

河合隼雄先生の、本から、知った、言葉
牛にひかれて、善光寺参り


あるとき、先生のもとを、訪れた女性
くりかえし、くりかえし、嫁の悪口を言っている
カウンセラーは、「聞く」ということ、トレーニングされて
いるので、聞いてる


そのとき、河合先生は、おそらくこの人は、「死ぬ準備」を
しにきたのだろうと、予感したといいます
そして、きびしいながら、そうしたことを、やりぬくのだろうと
予想したというのですね


その女性に言った言葉
牛にひかれて善光寺参りという言葉があります
その嫁さんは、あなたにとっての、牛ですとのこと


なにも、死ぬ準備だけでなく
思いがけず、ぜんぜん別のことから、宗教的な体験をする
ということ
拡大解釈すれば、別のことを、一生懸命やることで
人間として、大事ななにかに、気づけるということ


ありえると、思ったのですね
そして、自分にとっての、牛は、他人を指導するという行為に
なるのではないかと、感じました


いいえ、もっとつぼをついたそのものを、さらけだすと
なんとも、そのときはやっかいだったのですが
なかなか、自己コントロールをできない、社員について
指導しながら、その人が、自分にとっての、牛ではないかと
考えたのです


なんどか、そうしたことを、くりかえしながら
自分のなかに、人を指導するということが、とても
大事なのは、ずっとなんというか、生き方そのもの
みたいなものに、思えて来て、やっていくと
思うようになりました


そして、「ずるい」言い方かもしれないですが
自分が指導できる、私の指導が、伝わる人に対して
やりたいと、思うように、気持ちが傾きます


なにを言いたいかというと、そういう指導が伝わらない
という人は、やっぱり存在することを、認めようと、思うのです


長澤が、私自身が、まだまだ、そうした指導力が低い
ということも、あるかもしれません
あくまでの、企業というわくのなかで、やるのだから
ということも、あるでしょう


しっかり認識したほうがいいのは、ひとりの人間の
能力は、限られてるということを、まず知っておく
ということが、大事と思うのです


長澤が指導できる人というのは、限られるのです
おそらくは、一般的に、Aさんは、Bさんの指導は
できるけど、Cさんの指導は、いまいちだということが
普通に起こるのです


やり方は、工夫を続けること
やります
できれば、ひとりでも多くの人に、指導が届くような
工夫もしたいと思います


ただ、出会う人全員に通じるなんていうのは
自分の奢った、気持ちではないか、という感覚を
忘れずにいようと思います


自分にとっての、牛とは
そう思い続けることも、反省するということの
ひとつの、めがねの役割かもしれないと、感じます