牛にひかれて善光寺参り

河合隼雄先生は、「カウンセリングを語る」のなかで
カウンセリングにきた、年配の女性に、言います
嫁姑の問題できた、その女性に、あなたにとって
お嫁さんは、牛にひかれて善光寺参りの「牛」です


この文章を読んで、はたと思ったのは、自分にしたら
人材育成を看板にして、仕事をしていて、それでいて
なかなか、思うように育っていない社員がいて、その社員は
自分にとっての「牛」なのではないか?


このことは、いろいろ、言い換えみたいなことはできる
かもしれません。研究者だったら、研究対象が牛、
技術者だったら、自分の技術で追っかけてるもの
そして、出世を目指してる、人なら、出世そのものが
牛なのかもしれません


人間は、どうしてもなりたいもの、をもって、生きていく
ということがあると思います。サムエル・ウルマンの
青春の詩のように、その理想を実現することへの
情熱があるかぎり、若さをもって、生きることができると
いっていいと、私も信じています


こんなふうに、拡大解釈を続けていくと、牛にひかれて善光寺参りの
河合先生の言った意味から、どんどん離れてしまいそうです
だけど、おそらくは、人生の目標みたいなものと
言い換えることができる。


寺、というのは、鎌倉のそこそこ、近いところに住んでいた
自分としては、中学生くらいから、行きたい場所として
ありました。それは宗教のどうした、ということでなく
寺の持つ、なにかしら、いい雰囲気にふれたい。そういう
ことだったと思います


今でも、ときどき、訪れる、鎌倉の瑞泉寺。詩人や小説家が
好んだ場所です
夢想国師が作った、庭をもつ、この寺は、おそらく入っていって
坂を上っていくその道がいいのだと、思います
そう、まるで、桃源郷があるようなそんな期待をさせてくれる
道です


こうした道を通って、いい庭、そして四季折々の花が咲いてる
境内で、静かな時間を過ごすのは、素晴らしいです
何度か、人を案内して、その雰囲気をいっしょに味わったことが
あります。もしかしたら、小説家さんはそうだったかも
しれないですが、なにかいい小説を読んで、すがすがしい気持ちに
なるのに、似てる、そういう感覚があります


さて、ずっともどって、牛にひかれて善光寺参り。
なにか、達成したいものがあって、追っかけて、追っかけて
できたな、と思って、そういうタイミングで、寺にお邪魔して
まさに、自分のいろいろを振り返ることができたら
きっと、次の山をめざす、エネルギーがもらえる。そんな
ふうに、思います。またそういうふうな、生き方を続けて
行きたい。そういうふうに思った、今日でした