時間の流れ

私はいま、51歳で、昨年の年末のあいさつをしたときに
ある人から、50歳を超えたらね、おまけの人生。昔で
いえば、人生50年だよ。生きてるだけで素晴らしいということも
言えるから
と、そんな話をされて、もちろん「老け込む」つもりなんて
さらさらないけど、50年ということで、時間の長さを思います


4年ほど前、祖母の法事があって、そのとき、ああこの歳、2011年は
数えたら、祖母の生誕100年なんだなと思いました
50年とか、100年とか、20代のころまではおそらく
とてつもなく、長い時間という感覚がありましたが
自分という存在が50年生きてるということ、不思議な感じも
するのです


新美南吉という童話作家がいます
「ごん狐」という作品が小学校の教科書にのってる
ということで、思い出す人もいると思います
ごんぎつねは、小学校のときに、作文やそのシーンを思い浮かべての
絵を描きなさいという、課題になったことで、とても覚えています


もうひとつ、作品として、「手袋を買いに」というのがあって
やっぱりきつねだったと思いますが、こぎつねが、街にてぶくろを
買いに行く。おかあさんぎつねに、人間の手に化かしてもらった
手をだすようにいわれて、反対の手をだしてしまったのに
お店の人はそのきつねの手に合うてぶくろを、渡してくれるという
ちょっと、うれしくなるファンタジーだったのを、思い出します


その新美南吉の記念館を、新美が生まれ育った愛知県半田市
たずねたことがありました。記帳できる、感想に、全国から
小学生がきて、ごんぎつねの、イメージを膨らませて、
幼いながらも、イメージをもてた、うれしさみたいなものを
つづっていたのが、思い出されます


新美は29歳で夭折していて、1913年の生まれとでてきて
たずねたときが、生誕100年でした


100年近くたって、ぜんぜん色あせない、みずみずしさに
文学っていいなとも思いました
そして、祖母との年齢の近さを思い、とくにごんぎつねなんか
そうなんですが、里山の風景を、見事に描写していますが
それが、新美の少年時代と重なるとすると、いかに日本は
里山をこわし、変わってしまったかということを
感じます。いいかえると、ごんぎつねを読んだときは
かなり、「昔」の物語とも思ったのですが、その時間の
近さにも、あらためて驚く感じがします


人間の生きた証は、生きてることそのものでいいと
感じることがあります
新美のように、作品が残るのは素晴らしい
できれば人の記憶に残るなにかがあると、素晴らしい


灰谷健次郎の、「天の瞳」にて、主人公倫太郎の祖父が
言った言葉に、気持ちがとびます


記憶は、つまらんことを覚えておくためにあるんじゃない
自分がいっしょに生きた人のその人生を生かしておくために
あるんだと。
人の心が立つ日に記すのだ。心がしっかりすることだ


人は生きていきます。生きていれば、素晴らしいことにも
出会えます。日々を大切に、生きようと、今日も誓う日になります