奥村土牛

12,3年前。箱根の成沢美術館にて見た、奥村土牛
円空仏のスケッチが、とてもよくて、その頃好きだった
マンガの話をひいて、この絵はおそらく古典性を
持ってるといった、話を、このブログにも書いたのを
思い出します


生誕130年記念という、回顧展が山種美術館にて
開催されています


醍醐は、3年前に、やはり山種美術館で見て、そのモデルと
なった、醍醐寺三宝院の枝垂桜がみたくて、見た後の
春にでかけたことを、思い出します


画家の目、画家の表現力が、自分たちが見るものの
アートの世界では、水先案内人、パイロットとなって
くれるのを、感じます
こう書いてしまうと、少し自分を卑下してるようにも
見えるのですが、自分としてはそんなことはないのですが
文章の表現が拙いので、ご勘弁していただきたいです


醍醐寺に、でかけて、同じ枝垂桜をみる、つまり絵を見ないで
でかけたのでは、その美しさについて、目に入ってこない
ようにも思うのですね


画家が、描いた、美しさが、こうやって、美しいでしょと
いう、見るためのガイドになってるのを、感じるのです
ゆえ、土牛の醍醐をみた後、その枝垂桜の前にたつと
感じる部分が増える。もちろん、見てるそのものだけの
情景から、土牛がここで、じっと見たり、スケッチしたり
しながら、ずっと佇んで、いたんだろうという場所に
同じように、自分が居られるそういうことのうれしさなどが
あいまって、気持ちを浮き立たせるということも
あります


醍醐を見に出かける、おそらく何年もまえ、同じ山種美術館
「鳴門」という作品に、土牛さんの、情熱とやさしさを
感じたことがあります


荒々しい波、もちろんその力強さは残しながら、淡い色で
波の透き通った感じ、そして、海という包容力の象徴といった
存在の大きさのなかでの、渦という、そういう観方ができるような
荒々しいから離れて、ずっと見て居たくなる、そういう
感覚でしょうか


今回、とても気になった作品をあげれば、吉野と、市場の女
です。


吉野、いままで3度かな、訪れています
一番思い出すのは、永井路子の小説のまねをして、明日香から
吉野まで、歩いた、二十代の日です。足にマメを作りながら
ちょっとだけ、古代の人の思いを知りたくて、ほんの
ちょっとだけだったかもしれなけど、明日香から吉野への
道の峠で感じたものを、少し、いまでも思い出すことが
できます


吉野、作品では、山の稜線はやわらかく、優美です
そして、「色」。春のピンク、山は淡く緑に、茶に
塗られています。それは春の、やわらなか、水蒸気の
多い空気からくるのか、新緑であり、じっと冬を耐えてきた
木々の柔らかさなのか・・・


市場の女から思ったのは、実際、この作品も何度目かの
再開といって、いいのですが、やっぱり色彩のコントラストが
うれしいのです。それは土牛の作品を見返すと、色だけではない
挑戦、セザンヌにも影響された、とらえ方などでてくるのですが
あえて、色、です
日に焼けた、女性の肌が、どちらかといえば、庶民的というか
美の表現とは離れたものというような、先入観を前にみたときは
感じたものでした
でも、あえて、日に焼けた、肌と、ブラウスの白のコントラスト
今回は、土牛が表現したかったのは、こういうことかと
解説にも助けられたのですが、目に入ってきました


おそらく、土牛さんは、もう自分のなかでもスターと
いっていい存在で、これからも見る度に、心が澄んでくるような
そして、わくわく、浮き立ってくるような、そんな思いで
作品を見ることができるでしょう


今回も、また土牛さんが好きになりました