概念といったことを、話すと言うことは
知的ないとなみといっていいし、だいたいにおいて
思ってることが伝わるのか、というと、かなり
難しいね、と思います
先週末は、読書会がありました
テキストが難しかったというのもあるのですが
ある人の話は、ずっと、自分とは話がずれていたなと
感じます
言葉というのは、なくては、考えられないとても、大事な
ツールなのですが、言葉が、万能、ある言葉を伝えようとして
その言葉の背景といったことを、いっしょに伝えていかなければ
なかなか、伝わらないということが、あると思います
たとえば、司馬遼太郎の小説だったり、ユーミンの歌詞だったり
それを読んだり、聞いたりすると、ビジュアルな場面が
頭に浮かぶような、そういうわかりやすさ、といったらいいか
アピール力といったらいいでしょうか?そうしたものに
人がひかれて、いいなと思うのは、必然といったらいいでしょうか
なかなか、言葉を言って、そのとおり、うけとってもらえるって
難しいのですね。何度も使ってる言葉でもそうですね
自分が使ってる、その意味、ニュアンスと、相手が使ってる
意味、ニュアンスというのが、ずれるのです
例として、適当かどうか、わからないですが
何年かまえに、システマーズで発行してる、ブログに
書いた、なぜ、ずれる、の話です
「このプログラム、単体テストしてください」
言ったほうは、テストのチェックリストも作り、テストデータを
作ることを含み、当然テスト結果報告もつけることを
望んでる、ということ
言われたほうは、チェックリストやテストデータはすでにあり
それにそって、テスト打鍵のみをすればいい、結果報告も
誰かがやる」
言ったほうと言われたほう、なにをどこまでやるかが、ずれることって
ずいぶんあるんじゃないですかね
こういうシステム開発における、伝言ゲームの失敗なんてことだけでなく
日常生活だって、ずいぶん、ずれたり、は、当然のように
あるんですよ
そういうとき、しっかり、「つながり」のある人同士だったら
いったん、言葉のやりとりがずれたとしても、「あ、悪かったね」
とお互いおれて、ひとことで、そのずれを知って、修正して
大丈夫、となる。でも、そのつながり、があやしくなっていくと
修正に時間がかかったり、いらぬ想像から、修正するのに
一苦労なんてことになってしまうのかもしれないですね
そういうことからも、人と人がしっかりつながって
信頼をだんだん、高めてる、そういう状態を作りたいものです