東山魁夷

今朝、空を見上げると、見事なグラデーションが
目に飛び込んできた。特に今日は「青」が美しい
毎日、そしてその瞬間でしか、表現しない、自然の奇跡
といっていい、美しさ。ずっとずっと見ていたくなる


アーティストで、「青」をみせてくれるのは、大好きな
日本画家、東山魁夷です
もう10年以上まえ、東山魁夷の、京都東山に登る月と
円山公園の枝垂れ桜を描いた、絵の風景をみたくて
京都にいったことを、思い出します


東山魁夷は、京洛四季、という、連作を描いています
京都の美しさを、残すという、思いをもって
自然といっていい、京都にある、庭園だったり
植林したであろうと思う、杉林、二条城の石垣
修学院離宮の美、東山を望むところから、民家を
描いた、「歳暮る」を残しています


いずれも、人物は描かれていないのです
歳暮るは、人々の営みがあるであろう、家に明かりが
灯ってる様子は描いています
その、なつかしさ、あたたかさは、どうでしょう


ごく最近、後期の印象派とも呼ばれる、シダネルの絵を
見る機会がありました。ヨーロッパの素敵な屋敷、庭
が、なつかしいといっていい、様子で描かれています
まるで、いままでそこに人が座っていたのだと、思える
その風景に、人物はいない。だけど、人の気配は
少しするという感覚


東山魁夷は、おそらくはシダネルの絵を知っていた
とも、直観したのです
東山魁夷が、学生の時と、壮年になってから、ヨーロッパを
旅したのも、よく知られたところです。そして、ヨーロッパの
街を描いていますが、そこにも、ほとんど、人物はいない
その静かで、でも、どこか温かみのある、風景は
シダネルの世界と、共通部分があると感じます


「人物はいない」と書くと、人物を描くほうが、普通で、描かない
ことが、少数派とも見えるような、書き方となってしまいますが
おそらく、東山魁夷のなかでは、「風景」を描きたいという
思いで、一貫していたのかなと、想像します


「美術の物語」のなかで、ゴンブリッジはフェルメール
日常のどこにでもあるような、人物の生活の一部分を、奇跡の
ように、美しく切り取ったという趣旨のことを、言っています
私が解釈すれば、フェルメールは、人物も、風景のなかの
要素として、表現したといっていいのでしょう


風景のなかの一要素としては、人が生活してる、その足跡といった
明かり、窓の花たち、といったことは、描いてまさに人と
いるという感覚はあっても、人自体は描かない
想像力によって、どんな人がそこにいるのか、頭の中に描く
ということを、望んだといってもいいかもしれません


ドイツ、ローテンブルグの門番小屋にある、ベンチと窓を
切り取った「窓」
大好きな絵です
ここにも、人物はいない。そしてベンチに、この街について
ほっとしたであろう人が、何人座ったのかということを
想像させてくれる


そうした、想像する人をまた、思ってずっと絵を描いていた
東山魁夷のあたたかさがあると、感じてまた気持ちがほわんと
するのでした