記憶

東野圭吾の小説で、ちょっとSFといっていい
内容のもの、人の記憶を操作するという、研究者
またこれから研究者になろうという人の、その研究の
実態と、危うさ、日常生活をストーリィにしたものがあって
なかなか、楽しめたのを覚えています


記憶というのは、生きてる証といってもいいかも
しれません。その前の記憶がないということは
生きてるということを、感じれない?ということにも
なりかねません


もし誰かが自分の記憶を、ぬりかることができる
ということになると、そのまま人生そのものをとられた
といっていいかもしれません


記憶は大事です
生きててよかったなと思う、記憶に支えられて
自分は生きてるといていいかなと思います


平野啓一郎は、「マチネの終わりに」のなかで
主人公のひとりが、子供の時に遊んだ庭ということを
だしています。そこで遊んだ、いい記憶があることがあって
いいものとして、思い出せなくなることの、感覚
記憶がいいものとしてしまってあったのに、こわれてしまう
というこわさ、嫌悪感といったらいいでしょうか


灰谷健次郎は、「天の瞳」のなかで、主人公の
祖父のセリフとして、こうして話してることを
おまえは全身で受け止めた。わしの体はほろんだとしても
わしの魂がおまえのなかで生き続けると、いいます


もし記憶のなかに、誰かが生き続けるという
ことになれば、それは素晴らしいともいえるし
そうしたこと、記憶をいい感じでひっぱりだすのが
表現、言い換えれば芸術だといえるかもしれません


こうしてブログに書くという行為は、記憶にとどめておく
そういうことがしたくてやってるという、側面があると
なんどか気づくことがありました


あることがいいこと
生きていてうれしいこと、こうしたことをうまく再現する
少なくとも記憶のなかに、よみがえらせることができる
ことはいいこと、やりたいことになります
そうなのですが、日々情報ははいってきて、古い情報は
どんどん頭のすみに、いってしまいます
だから、アップデート、特によかったということは
なんども思い出して、ひっぱりだせるところにおいとおく
ということがしたくなり、事実そうしてるということ
でしょう


忘れることも大事と最近感じます
自分が、忘れていいと、思ったことは忘れる
これも大事な生き方といっていいことと、思い始めました
そうなのですが、間違うのが人間
もしかしたら、記憶にとどめておいたいいことも
忘れてしまってる、そういうことも気になるのですね


生きていてうれしいこと
何度も思い出したいこと、いい感じで増やしていきたい
そして、取り出せるようにしておきたい
ぜいたくなことでしょうか?