牛にひかれて善光寺参り

何年前になるだろう
7,8年前、朝散歩していて
いまも読み返している、河合隼雄の「カウンセリングを語る」の
一節を思い出していた


嫁と姑の問題というか、初老といっていい女性から相談をうけて
嫁がにくらしくて・・・といった話をするなかで
河合は、そのかたに、牛にひかれて善光寺参りという言葉がありますが
そのお嫁さんはあなたにとっての、牛ですといったという
そして、いろんなことはあったのだろうが、相談にきた女性は
実際、宗教なりを材料に立ち直っていくという話が載っている


自分のまわりにも牛はいるのだろうかと思った
そして、はたを気がついた
会社を経営していて、社員のマネジメントというのは
なんて大変なんだろうと思っていたが、それは
自分の生きるということに照らしてみると、まさに
「牛」なのではないかと感じたのだ


牛が手ぬぐいを角にひっかけてどんどん、いってしまう
それを追いかけて追いかけて、ついに長野の善光寺までお参りする
仏のありがたさ、すばらしさを体験するということ
いいえ、誤解しないように、宗教になにか帰依したいとか
そういうことではないのです


善光寺に参るということそれを、いってみれば、自分が納得できる
生き方をするという意味においておこうということです
自分がどんなに、社員のことを思ったりしても
伝わるのは何分の一だろう
いいえ、何分の一でも伝われば、それはそれだけで意味のある
すばらしいことです
人に関わるということは、その人の人生をともすれば、悪い方へ
影響してしまうということにも
なるのですから


社員を育てたいという思いは、ますます強くなりますが
知れば知るほど、人、人間というのは奥深く、複雑なので
どうしたらいいかと、あせり、悩み、迷うことが多いのです
でも、その迷う海のなかで、こうしようと泳ぎ続けることが
すなわち、生きることなのでしょう
迷うことも、大変意味のあることなのでしょう


牛にひかれて善光寺参り
ときどき、思い出すのです