ある男が、父祖代々の墓へやってくる。バスに乗り、まるで墓参りに出かけていく様子
なのだが、実は男はすでに死んでいて、墓の中に入るのが目的である。町外れにある
めざす墓に着いた男は墓石を上げ、カロウトの下にもぐっていくと、そこにはこの世を去ってしまった肉親たちが、死んだ当時の年齢そのままの姿で男を待ち受けている
男は、家族たちに迷惑をかけた、生前の愚行を思い出しては後悔の念に泣くのだが、
家族たちに慰められて少しずつ気持ちが和んでいく。ここで静かに暮らそうと思う。
やがて、男は家族たちと連れ立って祭り見物に出かけてく。


この話は、藤枝静男の「一家団欒」という短編
伊藤玄二郎の風のかたみの一節にでてくる。もう二十代のときに
読んで、何度か読み返してる
この文章を最初に読んでから、もう何人も自分のまわりの人が
虹を超えて、いってしまった
そうしたなか、だんだん、この文章から感じる感覚というのも
和やかなものになってくる感じがする


いつかこのブログにも、この文章を引き合いにだして、毎年というか
できればちょくちょくというか、親戚の人と和やかに談笑しながら
お墓参りができたら、少しずつ自分の死後のこともこわくなくなって
いくような気がすると書いている
この世で、大事なことが家族と過ごすことだと、思っているなら
そのことを十分に楽しみ、慈しみ、自分からそうしたことにどんどん
関わることで、決して「ひとりではない」という思いがして
怖くなくなるのかもしれない


一方で、そう信じられることが、とても大事なことなのだろうと
冷静に考える
ほわんと、家族的な生きるということに、暖かい色で脚色した人生は
とても、すばらしいことは間違いなのだが
その一方で、実際のところ、人間でひとり、ひとりで孤独なことを
絶えなくてはならないし、というか実際孤独にはかわりはないのだから
いいえ、孤独だから、ほわんとした↑に書いたことは幻想などと
いうつもりはなくて、実際孤独だからこそ、ひとりじゃないなと感じられる
なにかがあったら、それはほんとうに貴重なことで
ありがたい、大事にすべきことなんだということ
それを忘れないようにしようということだ


これも、前にも書いたが、河合隼雄先生が、欧米の個人主義というのは
いかにひとりで生きてくのが大変かということがわかってる
個人主義で、家族のことを大事にしてるといってる
ひるがえって、日本のいまの急ごしらえのコジンシュギ
個人主義の悪いところだけをまねしてるようなところがありますと
指摘している


いっしょにいて、笑顔になれる人がいる。そのことに
もっと価値を感じて、一瞬を大事にできる人生を送りたいと思う