育てるという思い

河合隼雄先生は、教育ということは
教えるという要素と育てるという要素が
あわさっているということを言ってる


教えるということは、ある面わかりやすいのかもしれない
言葉を教える。僕らの業界でいえば、コンピュータ言語を教える
テストのやりかたを教える
教えるというときによく思い出すのは、言葉というのは
万能ではないということ。ひとつには、言葉ひとつひとつには
その背景なりがあって、心に響くものになるということある
例えば、ジブリ風の谷のナウシカが好きだといっても
それはAさんがいう好きとBさんがいう好きというのは
度合いも、スポットのあてかたも違うというのは
想像しやすいでしょう


日本語を扱う日本人は島国に90%以上の同じ民族が住むという
世界では特殊な状況でずっと過ごしてきているので
言葉が通じないということを、あまり想像しないかもしれない
けれど、言葉というのは不完全なんです
だから、教えるという行為、主に言葉でするのだと思うのですが
なかなかうまくいかないこと多いのではないでしょうか
言語を教えるのに、この書き方が大事だといったとして
大事というのがそのまま、教えられる側にすとんと伝われば
こんなすばらしいことはないですが
なかなか、思いをもった「大事」がうわすべりして、伝わらない
ことが多いのではないでしょうか


一方で、「育てる」ということ
これは、ある面わかりにくい。母親が子どもを育てるということは
いろんなイメージがわくのですが、先輩が後輩を育てるというのは
どうしたらいいのでしょうね
たまにはやはりいっしょに食事をしたりして、あなたのことを
気にかけてますよと、伝えることから始まるのだろうと思うのです
育てる、そのやりかたは人それぞれ、その人数分あっていいのですが
育てようと思い続けること、このことが、なんといっても大事ですね
そして、育てようと思い続けるなんてことは、なんて難しいことでしょうか?
そう、まして「言葉」で育てるなにかを伝えるのは至難でしょうね


言葉でない、コミュニケーションというと、あ、スパルタ式かなどと
誤解されるかもしれないけど、もちろんそんな意味ではなくて
言葉でなく、なにか思いを伝えることに、ちょっと気をつけていたいと
それを覚えておいてほしい、そう希望します