高校生のころは
ときに、海が見たくなって
高校のある町の駅から電車で自宅の反対方向に
10分も電車にのれば、海に歩いて行ける場所にいけた
夏は海水浴であふれる街だけど
季節はずれの海は、もちろん人はまばら
でも貝をひろい、潮騒の音を聞いていると
なにかもやもやとした心も晴れていくと感じた
青春小説では、ロケーションとして
川なり海なりがあって、水辺で主人公が
佇んで、悲しみにくれてみたり、なにかに気付いて
走り出したりというのは、とても定番のシーンなのだが
やはりずっと、ずっと海に行ったりするのは
なにかしらのストーリィに入り込める感じが
して、気分が変わるものだ
十代や二十代であこがれた
ラブストーリィをあまり頭に描かなくなった
でも、ひとりの人間の憂いやら、詩人としての
高さ、生きることに挑戦してる姿勢などを
慕う人間がなにを思うかなど、勝手なストーリィで
イマジネーションの世界を遊ぶことはできる
外にばかり向かっていた目が自分の内面に
向かうとき、大人の階段を上り始めると、教えてもらった
ことがある。イマジネーションもそう
いかに自分が生きるかという命題を意識しはじめたとき
イマジネーションも別の翼を得る
昨日四谷駅で美術館のポスターを見かけた
ファンである、荻原碌山の彫刻があって
ストーリーがかいまみれた
気になる存在だ