荻原碌山

夭折した、アーティストはきっと
その、自分がなにかやりたいというエネルギーであり
魂の行動に、実際の肉体がついていけなくなって
バランスをおかしくしてるような、そんな印象がある


碌山もそうなのかもしれない


碌山美術館の、庭にあった、高村光太郎の、詩とも日記とも
とれる文章にそのような書かれようがあって、覚えています


碌山は、没後、100年を超えて、まだまだ、私たちの心に
なにかを届けています
生きることの意味、生きることの、喜び、苦しみ
女性、知的な女性を愛し、交流のあった、アーティストに
刺激をあたえ、まさに流れ星のように、といったらいいのか
その短い人生を生きた


愛に生きる、美に生きる
そのことを、つきつめていけば、自分の肉体ができない
自分の精神もおいついていかない、なにかにいきついてしまう
ということが、ありそうです


凡人は、ゆっくり、ある意味、ふんわりといったらいいか
あこがれをもちながらも、性急にその対象にぶつかったり
しないで、ずっと、継続していくことを、します。というか
そういう感じ方をするのでしょう


アーティストは、感じてるものが、凡人に比較したら
あまりに鮮明、あまりに強烈で、どうそれを受け止め
どう、表現するのか、非情に苦しいのかもしれないです


碌山は、「女」を作り上げて、その肉体として生きるという意味では
終わりを迎えたといいます
大変、苦しい、でも幸せな、生き方かもしれません


人間が生きて、少なくとも本人が満足して、死んでいくには
自分がやったことについて、達成感があることが、第一では
ないでしょうか


はたして、碌山がどれだけ、「女」を制作して達成感が
あったのかは、わかりません
ただ、その生き方を、彷彿させる、彫刻をみる、私たちの心は
あこがれ、ざわめき、凡人といえども、キューンと
ならずにはいられない、そんな気持ちで、見ます


残された文章をたどると、碌山の純粋さ、まっすぐ、逃げるといったことから
一番遠い、行動、性格、といったことが、かいまみれるのですが
ほんとうの、ほんとうは、もう知ることはできません
彫刻をみて、ファンになった私たちとしては、その生き方の一部だけ
あこがれ、いいなと思っていることが、一番いいことかもしれません


荻原碌山に、また会いに行きたいです