京都への思い

京都の桜をみてみたくて
計画をしてる
円山公園に枝垂桜があって、それは見事な枝振りだそうだ
東山魁夷はいう

「円山の夜桜として知られている、あの、しだれ桜の満開の姿と
春の宵の満月が呼応する情景をみてみたいと思った・・・


紺青に暮れた東山を背景に、この一株のしだれ桜は、淡紅色の
華麗な粧いを枝いっぱいに着けて、京の春を一身に集め尽くしたかに見える
しかも、地上には一片の落花も無かった。
山の頂が明るみ、月がわずかに覗き出て、紫がかった宵空を静かに登り始めた。
花はいま月を見上げる。月も花を見る。この瞬間、ぼんぼりの灯も、人々の
雑踏も跡形もなく消え去って、月と花だけの清麗な天地となった。」


この東山魁夷の文章にひかれて、京都の春にあこがれる
まえにテレビで、銀閣寺には、いまはない階段と回廊があったという
話を見たのを思い出す
銀閣寺は月をながめるための工夫がなされていて
まず、月が登りだすときは、一階にいて、月を愛でる
やがて一階では見えなくなる位置に月が上ると、今度は二階に
見ている自分を移動して、さらに見て、宴会は続く
またその2階でもみれなくなると、回廊に続く階段をおりて
建物をでて屋根の向こうにある月をさらに、見るのだという


月をみて、時間を過ごすことができうというぜいたくさに
あこがれる
そのあこがれは、単純に時間があるだろうという、いまの自分の
余裕のなさからでるものも、もちろんあるのだろうが
月や花という自然を愛でる気持ちそのものを持ち続けるという
ことに憧れる


先日の三溪園にいったときに、原三渓自らの筆にて、梅、竹を
そして、松をおめでたいものとして、好むという書があったと
思う。月、花、松竹梅。古典的といっていいかも
しれないけど、その良さを感じれるような、心の持ち方を
したい


京都の楽しみは、たくさんあるが、ひとつの大きなポイントは
庭園と思っている。実際、まだ見たことのない素晴らしい庭園が
たくさんあるのだ
全部見尽くすというと、それは大変だけど
全部見るというやりかたより、質、つまりどれだけ味わえるかという
ポイントにて、見てみたいと思う