燕子花図

尾形光琳 燕子花図


木島櫻谷 燕子花図


ふたつの屏風絵を見比べて、根津美術館の、庭園にいま
咲いてる燕子花を見ました


気づいたことは、尾形の絵は自分の描きたいところだけ
掬い取るようにして、描いたものだということです
もちろん、想像です


尾形の絵には、空間があります
その空間が、色であり、花も、浮き立たせて
まさに、この絵、この屏風にこの花を描くにあたり
どうしたら、一番効果的に描けるか、見てもらえるかを
考え抜いて、描いたものだと、想像したのです、


解説に木島櫻谷の絵は、尾形に比べて、写生をもとに
してるとありました。まして、咲いてる花は
重なり合うように、花のカブはくっついてるのです
尾形も、見た花自体は、くっついて、空間などは
なかったのではと、想像しました


そして、そこからまた想像する、尾形の考え方、もっといえば
生き方といっていい、それは、絵に対して、どうしたら
自分の描くものが、美しく映るのかということに
ついて、考え、実現できる、考察力、また表現力があったということ
そして、そうしたことが、画家には、大切なのだと気づきます


東山魁夷の、京洛四季をみて、その場面を実際みたくて
京都を歩いたことがあります
京都、円山公園の枝垂桜は美しいですが、東山魁夷が描いたものは
きっと、理想化があるなと感じたのです。決して写生してるわけではない
いいえ、写生はするのですが、写生したままを書いてるわけではない


画家の目は、いろんなものが見えるのだとも思います
おそらく、東山魁夷は、尾形光琳が表現した、美しさを自然から
掬い取って絵にするということも、よく知っていたのだと
感じます


そして、これも想像ですが、木島櫻谷も、尾形光琳のやり方、表現を
知っていて、わざわざ、自分はと、写生に近い、構図を描いたのだと
想像します


同じ画題を選べば、きっと人は比較します
比較しても、そん色ないなにかをだせるとうい自信があっての
作画でしょう


花を描くということは、自然を愛でるということが
ひとつあることは、まちがいないのですが
ずっと、描きつづけられてきた花を、さらに描くということに
ついて、覚悟もいるのだと、感じた、日曜日でした