木を感じる

もう10年も前だろうか
社員旅行にいって、泊まった宿のほど近くに
木々が青々と茂っている、いい雰囲気の寺があって
朝散歩した


フィトンチッドという説明が木のところに
書いてあった。木の出す分泌物で木は自分の居心地の
いいようにするために、常に発しているという
その分泌物が人間にもいい影響があるのだと


その木の良さを感じながら、牛にひかれて善光寺まいりという言葉を
思っていた
自分は経営者になって、いろいろ社員を思ったり、しかったり
なだめたり、している。そのことを好きだから選んだのだからと
後悔したりはしてないにしても、なぜこうも思うようにいかないか
どこかで、「理不尽だなぁ」などと思っていたのです


だいたい、人間は神様が作ったもので、同じ人間である自分が
なにか影響を与えるなんて、できたとしてもほんの少しだ
そして、こうつぶやいたあと、その人が変われるきっかけは
ほんの小さなことでもありうるわけど、その手伝いなら
できるかもしれないなどと、何度か思っている


ここでいう、ほんの小さなきっかけをつくる手伝い、という言い方
いまでもどこか肩に力が入った部分はあるのでしょうが
10年前とかは、とんでもなく力づくで思っていたように
思うのです


いろいろやる。実らない。「ああ理不尽だ」などと思ってる
しかしながら、河合隼雄の「カウンセリングを語る」にでてくる
牛にひかれて善光寺まいりという言葉に、少し救われました
理不尽と思うのは、やはりそこからまちがっていて、あくまで
自分のためのいろいろなめぐりあわせなのだと


木はだまって、ずっとそこにあります
雨がふれば、その緑をよりあざやかにみせてくれます
週末に信州にいって、森林浴、フィトンチッドを浴びてきました
自分ができることは、限られてるなと知ったら
限られてるがゆえに、その大事なタイミングをのがさず
自分ができることを、やろうと思うのです


人間は、本気で物事にあたれば、いい仕事ができます
いろんな出会いもあります。前には思ってもいなかったような
自分になれることもあります
でも、だれもがいう、「本気であり続ける」のは大変です
だから、仲間とお互いを鼓舞して、本気を伝えあいたいものです
おまえの本分はなんだと、聞き続けたいです
笑顔でそして答えます。やってるよ、できそうだよと