世代のギャップ

先週あった会議において
なぜ、若い人はコミュニケーションが下手なのかという
疑問を胸に
会議上ででた、先輩からのアシストのサジェッションに
対して、「うわ、それ、すごく助かります}(にこっとして)
といえばいいのに、なんでできないかね
とつぶやいたら
「それは、いまの世代に求めるのは、時代がちがいすぎ」という
話がでてきて、改めて、世代の差ということを思う


ぼくらが十代とかのころは、ことさら世代の差みたいな
ものは、声高にメディアでとりあげらああれたと感じる
ひとつには、憲法がちがう国に育ったという事実がある
戦前の教育と戦後の教育はそりゃ、ちがうと思う


最近、明治の生まれの人で、明治以降の日本人の宗教に対しての
感覚を書いたエッセイを書いてるものにふれた
どうも、ずっとキリスト教は、なにか新しいものを与えてくれるという
感じがして、仏教というと古臭く、学ぶものがないというような
風潮があり、しかしながらそれは、思い込みで
仏教は、古典といっていい日本人の心を形作ってきた
いろんな知恵とか、生き方がつまったところで、学ぶべきはたくさんある
という記述


若い人から、世代の上の人に向かって、時代がちがうという言葉を
いうのは、ずっと昔からあったことのようです
あまり、面とむかっていわれたことがなくて驚いたけど
きっといいたくなるセリフかもしれない
たとえば、育った環境がちがえば、コミュニケーションに
いわばハンデがあるように見えることは、少し割引で
考えないと気の毒なこと
それを同じ土俵にたつのが、当然という態度をとったら
やっぱり、時代遅れといわれてもねぇ


時代をへて、変わるものと変わらないものがあると
思う
その見極めは難しいけど、コミュニケーション能力も
時代を超えて、役にたつレベルまで、自分を鍛えたいと
思わないか?
何度か、研修の準備やらで、書いたレポートに
内容より、つながりというポイントをあげた
これはとても、わかりやすい解説で、それこそ時代を超えて
真実じゃないかと思う


人間は言葉をもってる
その言葉を、大事に生きるのは、ある面すばらしいのだけど
言葉だけで、いいコミュニケーションがとれると思ってるのは
なんというか、狭い考え方だと感じる
言葉以外の要素の大きさは大きい
単純にいえば、顔は怒って、冗談をいっても誰も笑いません
表情やしぐさのほうが、言葉より通じてしまうのです


そうしたいろんなことに、少しずつ気づいたら
例えば、ひとつの説明より、笑顔が、握手が
声をかけてくれた、そのタイミングが、貴重で
相手の心に残るということが、おうおうにしてよくあるのです
よく生きたい、誰かをちょっとでも幸せにしたい
その気持ちが、ふくらんでいくとき、気付くことは
多いと感じます