植物との対話

聖なる予言という小説が少し前、人気があって、読んでみた
そのなかで、植物と対話するという話題があったと思う
そんな?非科学的なことあるものか?と笑った最初の自分がいる


そのころ、職場でごく近くにいた、農家で生まれ育ったという人に
そんな話をしたときに、そのこと、つまり植物と対話するというのは
不思議でもなんでもない、自分の父親であり、まわりの人が必ずやる
あたりまえのことだ、と言い切ったことがある


つまり、農家の人にしたら、種まくときも、水やるときも、常に
「よく育てよ」「元気になれよ」「いっぱい花を咲かせてね」
という会話をしてるのだという
それは、とても自然、あたりまえのことだという


あれから、ずいぶん、時間はたったけど、いまでは
自分も、あたりまえとまでは思えないけど、植物から発するものを
感じて(フィトンチッド)こちらからも、こんにちは、元気ですねと
声をかけていることがあるように思う


人間と人間のあいだで、対話があるということはとても
大事なことだし、「成長」ということでは必ずはずせないこと
なのではないかと思う
それで、植物は、確かに人間のようには、会話はしてくれないけど
雨の日の若葉が喜んでる様子だとか、冬に寒いときでも、じっと耐えてる
様子だとか、夏の木陰だとかにいると、木のそばでなければ
感じられないなにかを、感じることができると思う


もう10年ほどまえになろうか、白神山地を歩いてみた
森が、息づいてるのを感じた。ぶなの落ち葉が何層にもあわさって
できる、やわらかい地面があり、そこをおおもとに、いろんな植物が
おいしげる。水が豊かだろう。おそらくからからに乾いてしまうなんて
ことは、ないにちがいない。
植物は、実はそうした、豊かな森をもとに育ってきたということが
ありそうだ。人間がこざかしくも、植林などして、緑をとりもどす
なんてやってるけど、そんなつけやきばのことでなく
ずっと、時間をかけて、育ってきた森はまさに力強く、生きる力
をためているのだろうと、感じることがある


白神山地のようにまでは、いかなくても、いま住んでるところの
近くでは、総持寺という堂々たるお寺、そして鎌倉の寺々、木のあるところに
行くと、自分の気持ちがすっと澄んでくるのを感じる


若い社員に、「人間として、恥ずかしくないことをしよう」という
話題をだします。その、恥ずかしくないということを思う時
さて、そのことを、判断してる自分はいま、客観的に見れるような
そんな状態にいるのか?と思わなくてはならない
人との対話が大事、共感することって素晴らしいけれど、河合隼雄先生はいう
その共感する自分たちの器はどこまで、鍛えてあるのかという反省を
常にしなくてはならないのですと


木々のなかにいること。そのことは、少なくとも自分の心をおちつかせ
少しは客観的に見える位置に近づき、自分の器ということを反省する
だけの、すきまを心に生み出す手助けをしてくれると感じる
しかし、なんて、そのことが必要ということ、その大きさに対して
自分が用意できること、反省してる心の部分というのは、小さく
まだまだ、拙いことか!


経営ということ、人をリードするということ
ずっとやりたいなと思って、ここまできた。まだまだ足らないことは
たくさんある。いいえ、やっと見えてきて、これからこそ
やらなくてはならないことが、山積みだと表現したほうが
あたってるかと思う


ときに、木々がそのやわらかい空気をとおして、語りかけてくれるような
そんな、大きさ、そんな自然さをもって、人に接したいものです