あじさい

今日、ウォーキングをしていると
あじさいが、色づいてきたことに気が付きます


あじさいのある、住宅街を、歩いたことを
思い出します
自分が、なにものか、自分はいまどうしたいのか
ふっと、わからなくなるときって、誰にもあるのでは
ないでしょうか


そういうことを、なんとなく思って、半日でいい
日常から脱したくて、歩きました
都合2時間か3時間はあるいたと思います


歩いていると、どこかで、客観的な考えのもと
いいえ、自分のやってることは、そのままいいことだ
というか、自分で決めて進んでいく、というその過程だ
だから、そのいまの時間を大事にするということは
自分にとって、とっても意味のあることだって
思えて、そのまま家に帰り、ご飯を食べて
寝て、という日常にもどってなんということもないのです


どこかで、客観的な考えがでてきて・・・ということが
大事なのかもしれません
なんでなんだ?とどうかすると後ろ向きな考えのまま
立ち止まっていることを、どこかで許し続けてしまうと
日常にもどれなくなってしまうのかもしれません


こんなふうに考えると、一日という単位があり、季節があるという
ことはなんて、大事でそうしたことを、感じながら生きていきたいと
思うのです
今日、ちょっと失敗したり、うまくいかないことで
気持ちが沈んだとしても、明日はまたいいことがあると
思えること
季節でいえば、夏の暑いときでも、冬の厳しい寒さでも
忘れず、自分のやりたいことをやり続けていたら
それは単に、やりたいことということを、超えて
自分のなかの、軸といっていい、自分の個性として
もつことができるようにも思います


紫陽花ということで、もうひとつ思い出すのは
もう10年もまえになりますが、白神山地を歩いたこと
あじさいが、咲いていました。そのあじさいは、あの
がくをいっぱいつけたものではなくて、ひょろながくて
ガクアジサイのまた、もっと原種に近いのか
花は、それは地味かもしれないですが、ひょうひょうと
自然のなかに生えていました
しっとりとして、それでいて、なんというか、居やすい
雰囲気の空気に包まれた感覚が残っています


花をめでる気持ちをどこかで持ち続けることが
できたら、うれしいと思います
キャンプした、朝、泊まったところの
ほんの近くから、水引の花を摘んで、花瓶に
活けていたそんな、自然な気持ちを見習いたい


これももう10年以上まえの話
そのころ住んでいた、アパートから駅に向かう途中に
それはそれは、本当に花があふれてる、いい感じの庭を
もつ家があった、そのまえをとおるのが、楽しみでした
きっと、そこに住む人は笑顔を絶やさないそんな暮らしを
してるのかなと、想像して、見ていた
そんなころから、植物を、大事にする暮らしが、いつか
できたらなという、漠然とした思いを抱いてきたという
ことがありそう


いまは、家にはほとんど、植物はおけないけど
そんな暮らしができたら、いいなとずっと思ってる