自分と他人

自分は自分に対してと、他人に対してとどっちが我慢強いか
それは、もちろん、ときと場合によりますね
実際、50歳を超えまして、経験がそこそこ積めた?ようにも
思ってる自分は、一応こんなふうなシチュエーションで、こんな
感覚で自分がいるなら、他人に対して、がまんするだろうなと
予測したりはするのです


私は、自分おり若い人に対して、なんらか、成長のために種まきを
して、水をやり、風よけをつくってやり、見守るというのが
好きです。そのとき、水をやる、加減って難しいよね
かなり、気を使うねなんてこと、あるわけですが
それは、難しいなりに、自分では楽しいつもりです


社会人2年目になって、はじめて後輩いを教えようという人がいます
私は、そういうことが起こるように、しむけています。いってみれば
成長の種まきです。一定の複雑な概念であるとか、考え方などを
説明するって、予備知識がない人に対して行うとなると、かなり
骨の折れる仕事ですよね。そうしたとき、どう説明するのか
また相手の理解度をどうやって、確認するのか


私はヒントとして、水やりをします。そんなとき社員同士であれば
もうひとり社員を連れてきて、説明してる最中を、見て聞いてもらうという
ことはどうでしょうか?あとで自分の説明についての評価を聞くことが
できます。もうひとつは、説明された側に、自分の言葉で説明しなおして
もらうということも、どうでしょうか?


システム開発をするのに、自分は1年目から理想的な環境で仕事しました
という話をした、社員がいます。すごいことだと思います
もちろん、比較対象がきわめて少ないということがあります
それにしても、社会人として、スタートの仕事が、自分で評価して
理想的と思えるということ、それがとってもいいことです
それは、なぜ?と聞いてみました
いっしょに働いて、ときに指示をもらう人の姿勢が素晴らしいから
という言葉が、すっとでてきました
なんて、すごいことでしょうか?


他人に対して、いかに我慢強くいられるか?ときと場合によるわけですね
いいかえると、他人に対して、いかにいろんなことを、許容できるか
ということも言えると思います。つまりふところ深いという感じで
接することができるか?ですね
最近よく思うのは、自然体で、そうしたふところ深いところができる
という前提でやりたいな、と思うということです
つまり、「気を使って」相手が何かするのを、しやすいようにしてる、許容してる
という状態ってあるでしょう。よくあるのは、お客様だから、細かいことは
言わない。許容するなんて場合ですね。もちろんこれは、特にお客様なんて
いう「特別な」場合について、必要だし、ほかのシチュエーションでもありえるし
必要性は認めます
しかしながら、長期間、いつもいつも、となると、気をつかって、というのは
やはりしんどくなる。ゆえい、自然体で長い間でも、無理なくできる
そういう前提でやりたいな、そんなふうに考えます