奥村土牛

山種美術館で、開催中の奥村土牛の作品展を見てきました


動物を、風景を、人物を
うまく描こうということを、思うあまり技巧に
はしるのでなく、その美しさ、愛らしさを自分のなかで
一心に思う心があれば、絵は生きるのだという趣旨の
言葉が、残っていました


これは、最近、企画のイロハを書いてある、解説書の
なかで、自分の心が感動していないと、それは
まるで、たまに会う、親戚のおばさんが、最近の若い人は
こういうの好きなんでしょと、甘いばかりのおかしを
だすような、ぎこちない、優しさににた、心にひびいてこない
ものになる。との、たとえに近いものを、感じる


さらには、ペレジヴァーニエという言葉にであったときの
演じるということも、なにか表現するということも
心が伴わなければ、決して、見てる人を感動させるものには
近づけませんという、作家の言葉にも思い当たる


ポスターにもなってる、「醍醐」。枝垂桜がみたく
なります


姫路城の門、光をまぶしく感じることができます


「茶室」を見れば、あ、茶室の空間って、こんなに
奥深くみえて、リズムがあり、楽しめるのだということを
教えてくれます


奥村土牛さんは、ここ、山種美術館であり、小梅市の美術館で
見ていたのですが、今回は、さらにその大きさ、生き方の
すごさに、目をひらくことになりました


土牛さんの言葉で、「ようやく、自分の仕事について理解が
少しできたなと思ったら、80の坂を超えてました」
ということがあり、うーんとうなります


ある、描きたいと思うものに出会い、それはたとえば、吉野の
桜の風景だったり、那智の滝だったり、するようですが
それを、何年もかけて、診て、記憶にとどめ、絵にするまで
とても長い時間をかけています


年齢が、高くなって、その絵が進化するということに
びっくりもするのですが、土牛さんのなかでは、それでも
足りないというようなことを、思っていらしたかと
思うような、時間の長さです


どうも、50代以降の作品がまた、輝いてみえるのですが
それは、50代以降になにかがあって、作風がかわったというより
それよりまえ、ずっと力をためてきたものが、50代以降になって
美しいものとなり、土牛さんの身体のなかで磨かれて
零れ落ちてきてるというような、感じがするのです


この継続性の、驚き。その維持するというか、発展させる
エネルギーの驚き。
まさに、自分もまけてはいられない、というか、これからこそ
面白い人生を送るということが、できるんだと、思わせてくれる
そういう、見本としての、生き方をしてるような、素晴らしさです


鳴門の渦潮をみたときに、これを描きたいという創作意欲が
でてきたという、話。富士を何度も描いてるのですが
描くたびに、自分の目にあらたに見た富士を描いてるという
なんというか、描くということ自体に、神聖なものを
感じるような、そのやり方。哲学に近いかもしれませんね


明治生まれの、この画家の輝きは、私の生き方も明るく照らす
そんな存在になるような、気持ちになった、いい展覧会でした