奥村土牛その2

奥村土牛の展覧会をみて、東山魁夷との共通点と相違点を
話しました
東山魁夷も、奥村土牛も、自然の美しさをうたってます


東山魁夷は、その美しさを表現するのに、おそらくは
考えて、構図はこうしよう、といった、考えをもって
絵を、描いていくのを感じます


一方、奥村土牛は、おそらくは、手で、指で、感じたことを
そのまま表現するのではないかという話になりました


奥村土牛の「牛のあゆみ」を読み返して、その解説において
河北倫明は「土牛芸術成立のキイ・ポイントについて
セザンヌ芸術の触発があった」と論じます


日本画が由来もっとも不得意とした客観的自然の構造的把握、
いってみれば、立体感、実在感の裏付けのなかで対象をとらえる


セザンヌの作品について、アーティゾン美術館でみて
セザンヌってなんだろうと、ずっと、頭をひっくりかえしても
わからないのですが、土牛さんは、たぶん理解したというより
河北の解説を借りれば


素直なセザンヌそのものである。自然を実在的、原則的に
純化して見ると同時に、その深く澄んだ精神的統一までを
感得するような美神経、そのような形と心の両面において
土牛青年は、セザンヌ芸術の高い波長に惚れこんだ・・・


そう惚れた、理解するというより、好きになって
手や指でものにしたといっていいのではないでしょうか?


絵は理解するというより、好きになって、いけば
そのほうが、自分にとっていい。そういう単純なことを
ふっと思い出しました


アート好きな人は、知ってる、セザンヌが、近代絵画の父と
言われたり、抽象画のあれこれの、出発点になってる
などの話がありますね


セザンヌの絵は、他の画家から、支持されたという話も
あいまって、気になってはいたのです
ところが、どうも、木にはなるのですが、セザンヌ
すごさ、美、というのが、自分の心に迫ってこないのを
感じていました


ですが、この河北倫明の解説を読みながら思ったことが
奥村土牛が、いいえ土牛芸術が、セザンヌの美への
導き役、つまりパイロットになってくれるかもしれないと
思い始めました


ブログを読みかえしていて、ずいぶんまえ、15年とか前です
箱根の成沢美術館において、奥村土牛さんの、円空仏
スケッチをみて、いいなと思いました
だけど、実際円空仏をみると、土牛さんのスケッチでみた
時の心のわくわくがないのです


それは、私が土牛さんというフィルターをとおして、円空
なにがしかを、感じていたといっていいようでした・・・


そういうフィルターではなくて、おそらくは土牛さんが触媒に
なって、セザンヌを感じれるのでは・・・と期待します