45年前

45年前の冬のある日、横浜に雪がふりました
そのとき、入院していた、祖母を見舞うと約束していた私、雪が
ふってもどうしても行くと言い張りました


「今日は雪だから、おばあちゃんのところのに行くのは、こんどにしようね」


「ううん。ぼく、おばあちゃんのところに行く」


そんなやりとりをさんざした、私と母。最後は母は折れて、
横浜駅からバスに乗って、横浜市民病院に行きました
おそらく雪の影響で、市民病院の前まで行くバスがなくて
三ツ沢公園に降りて、歩きました
雪のなかの、歩き、小さい私には無理を母は私を背負いました


親というのは、子供のやることを、言うことを結局は
許して、その失敗を、フォローするということの
連続のようです
親であれば、こうする、そうした言葉を、何度も母から聞かされました


その日が過ぎて、雪という珍しいことだったこともあいまって
雪がふったり、また私がわがままを言ったりすると
そのたびに、そういえば、雪のあの日、哲也は、どうしても
行くといいはったね、と、子供のときから、言い出したらきかない
「キカンボウ」だったねぇと、繰り返しいわれたものでした


あるときは、友人とケンカしてきた、私をとがめて
おまえは、気分屋だから、そうやって、ケンカ別れしたりするんだとうと
言われました
その友人の話とか、そうしたことに近い話がでるたびに
「おまえは、友人を本当に大切にしてるのか」そういう意味で
たしなめらました


いま思えば、親は心配から、拡大解釈をして、私の判断力を疑い
人様のほうにぶがあると、いうそういう態度で生きていけという
ことだったのかと、そのときの感情がやわらぐたびにそう思います


「自分が、どう思うか」「自分の信じてるところはどこか」
そういう視点でしか、人間は生きられないという、感覚を
どっかで、もっていた私は、50歳をすぎて、やっと
あのときの、親が心配する、気持ちを察するようになってきたようです


そりゃ、誰だって、自分を信じて、自分の視点で生きていきます
でもね、まちがってることだってある。親しくしていた人と
急にケンカしたなんて聞くと、あ、また気分屋の哲也が、なにかしたのだろう
なんて、いわれるのは、ほんとうにそのときは、心外だったのだけど
親が心配する心という、フィルターがあったのだと、思うと
なんとなく、ああ、それも、大きな意味では人生のレッスンと
受け取っておいたほうがよかったのかと、やっと思えるのです


雪の日に、どうしても行くと言い張った、私は
いまでも、自分がやろうと、思ったことは、人を利用し
仲間に応援を頼みながら、なんとしてもやるぞ、そんな
ふうに生きてるようです


もうそのおまえは、キカンボウだよと、言ってくれた
母は、虹をわたっていってしまいました
身内がそうして、旅立つのは、悲しいけれど
残された私たちは、やっぱり、そのぶんしっかり生きていこうと
誓う、そういうことしか、できなんですよね