美しいもの

長峰山という、信州安曇野にある、山に8月19日に上りました
そこから、見渡す、安曇野は広く、ゆるやかに、あって
気持ちをなごませることができたと思っています


川端康成と、東山魁夷井上靖が、連れだってここを訪れたことがあり
この景色がおおいに気に入ったという話があります
あとで、井上が、川端と東山は、熱心にずっと話し合ってる
「美」についてだ、と語っています
川端と、東山はどんな話をしたのでしょうか


これは全然、勝手な想像ですから、人によっては、まったく違うだろう
という見解があって、当然だと思うのですが、いまの自分が想像
できる範囲でいうと、荻原碌山の「女」という作品を
思い浮かべるのです


東洋のロダンと、称された、荻原碌山長峰山から、見下ろせる
(もっとも、普通の視力の人では、遠くて、その位置は確認するのは
難しい)大糸線穂高駅のすぐちかくに、碌山美術館にその
作品をみることができます


この「女」という作品は、私、2度目にみたあたりから、とても心を
ゆさぶられる、思いがしました
日本人は、仏像という、美しい彫刻を見慣れていますから、写実的な
彫刻で、そこそこのものをだされても、「ふーん」くらいで
済ませてしまうことが多いように思うのです。でも「女」はちがいます
なぜ、仏像で見慣れた目にも、荻原の作品が、心に残るのか
その違いはなにか


私には、人に説明するだけの語彙が足りてないのですが
必ず、その差、美というものに対する、一定のなにかがあるのじゃないかと
感じています
そうした、人に訴えてくる、美から発生する、なにかについて
川端と、東山は語っていたのでは?


川端の作品、「古都」を読書会で、とりあげました
川端は、美しい京都を、書き残したくて、この作品を
書いたのではないかと感じました
登場人物のなにかを、描くのではなく
登場人物の、いわば、京都を構成する、一要素として書く
京都という特殊であり、日本人の心に、ありつづける、美意識を
刺激するなにかを、持ち続ける街


井上靖の、話であり、古都の作品としての、印象を重ねると
川端は、日本人の大事にしてきたもの、そして、そのころ
失われてしまいつつあると、感じていたものに、気持ちが
傾いていたと感じます


滅びゆくものへの、気持ちの傾きというのは
日本人なら、もつ、これも美意識といっていいのかも
しれません
そのことに、こだわり続けた


人も、街も、社会も変わり続けるのが、自然だとすれば
滅びゆくもの、というのは、どうしても避けられない、存在
そこに、美しさを、追いかける
ちょっと、さみしい気持ちもしますが、美しいものを
追いかけると、避けて通れないのかも、と想像します