ゴッホ

アートを志すということは、美しいものの、自分だけの表現をみつけて
人に伝えていくということに、なると思います。「人に伝えて」というところは
本質的に、必要なのかどうかは、実はわからないです。ただ、言えるのは
アーティストが人に伝えることを、気にしてくれるから、一般人はその世界に
ふれることができる、ということでしょう。


東山魁夷は、日本の海と山の美しさを、追いかけました
唐招提寺の御影堂の、襖絵を描くのに、何年も日本中をスケッチして
まわったという話を知っています
日本の、一番美しいと思える場所をさがして、スケッチ旅行を続けるって
どういうこと、どういう気持ちなのでしょうか?
鑑真和上の日本への気持ちにこたえたい、と聞きました
何百年たっても、色あせない、そうしたものへのあこがれ、ともいっても
いいかもしれないですね


荻原碌山は、相馬黒光への、気持ちを、アートに昇華させたのですね
その、決して、かなわない、恋心というのを、アートにぶつける
ということで、生きた、証としたというのです。
その生き方は、しんどすぎて、荻原碌山の命をけずり、完成と同時に
血をはいたのだ、と、友人の高村光太郎は、碌山美術館に残る
石碑に、そのことを、日記ともとれる形で残っていますね


しんどい、アートへの、接し方。さて、今回、東京都立美術館にて
ゴッホゴーギャンの展覧会を見てきました


ゴッホの魅力って、なんだろうと、考え続けます


惹かれるのです


ゴッホを、小学生のとき、伝記で読みました。
アルルでの、作品が、一番ゴッホの画業で、輝いてると
その伝記作家は、確か書いていて、ゴッホのはね橋という
作品を、とりあげていました


今回、東京都美術館でも、アルル前後での、ゴッホの絵の
色彩が、たいへん明るくなっていくというのを、実際絵で
展示していました


想像するに、アルルという、そのときのゴッホにしたら、理想郷的に
見えた場所があること。そして、ジャポニズムであり
印象派の画家の影響、そうしたものが、自分の才能の開花という
ことと、あいまって、自分が成長できる、もしくは
自分がいろんな意味で、変われる、それもよく変われるという
期待や、実際自分が描く絵の変化も、自分へかえってくるような
そんな、体験をしたのではないでしょうか?


自分が、すごくいい存在になっていく、という気持ちのなかで
実際は、絵の変化ほど、自分の性格も自分の生活も
変わらない。それどころか、他の人からは、やっぱり理解されない
その落差。どこかから、つきおとされるような、気がしたのでは
ないでしょうか


それでも、絵を描き続ける
アートに、自分の道があると、信じ続ける
その、こわさ。その強さ
そうしたものに、共振しながら、私も、絵をみるということでしょうか?


ゴッホは、なにか訴えてきた。うーんとうなってしまいます