ゆったりとしたものへのあこがれ

週末の、夕飯は、ゆっくり杯を傾けながら
誰かと語る、そんなふうな、ゆったりとした、時間がもてる


語る、ということでは、ときには、気の置けない友と
時間を気にせず、語る、そういうことが、お互いしたいなと
思える友の存在


これは誰もが思う、いい時間、いい空間なのかなと
思うのですね
そういうことを、いいもの、として、置くとして
出光美術館 「水墨の風」の展覧会は
目にしみるといったらいいか、作品が、いいと思える
いい展覧会です


長谷川等伯について、安倍龍太郎の「等伯」という直木賞受賞の
作品が、日本経済新聞で掲載されたときから、気になりました
それを、読み終え、京都の智積院で桜図、楓図をみて
すっかり、等伯のファンになりました


小説、等伯のラストシーンに、等伯の生涯かけた傑作として
描かれる、松林図屏風。これは東京国立博物館が、お正月には
みせてくれるのえ、みたこともあるのですが、これはこれで
すごいのでしょうが、桜図、楓図のほうが、実は私には、目に
入りました


今回、「四季柳図屏風」が、目にとまりました
描いてるのは、柳が風にゆれてる、それだけ
といえば、それだけなのでうが、存在感があります
こうした、なにげないものが、存在感をもって描かれる
そういう、ところに、画家のうでがみえるといっていいようにも
思えるのですね


水墨の、水墨たる、そのぼかしのよさ、また遠近の深さ
といったことも、一応、楽しめました
ここで、一応と、書いてしまうのは、自分なりに楽しんで
雪舟さんが、そして雪舟が気にしたという、牧谿であるとか
玉澗などの、ぼかしは、いいなとも思うのですが
世間の評価というか、そういうことがあまりに高いので
そういうこと、を気にしながら、うん、いいものだと
いいきるのが、ちょっと、気が引けるのですね


何度か思ってることですが、長谷川等伯の絵というのは
自由に見えます。描きたいものを描いてるという感じがするのです
同時代でいうと、狩野派はというと、どうも、見る側への
媚があるようにみえてきてしまいます
いいかえれば、狩野派のほうが、サービス精神旺盛といっても
いいかもしれません


ファンとして、自認してる、私としては、等伯の自由さは、その
能力というか、画家としての力量の高さに、由来すると
思いたくなる、そういう、傾向があります


小説のなかで、長谷川等伯と、競ったといわれてる、狩野永徳がいます
永徳の父、松栄はいいます。「永徳は、等伯がいて、自分のことを
みつめ、自分の絵と高めることができた」
もし、そういえるなら、きっと等伯のほうも、狩野派の存在が
自分を高める、なにかしらの、栄養になったのではないかと
感じます


絵の世界でも、よくいうような、スポーツの世界のような、ライバルが
いるということが、お互いを鼓舞させ、お互いを高めていくそういうことが
あると、感じます
そして、おそらくは、ビジネスでも、そうだし、人間、言ってみれば
そうして、まわりの環境を、自分の成長につなげることができる
ということが、大事と、見えてくるのです