絵を描くこと

富山県に福光というところがあり
それが、板画家 棟方志功のゆかりの里だと
今回、旅してわかりました


絵を描くということは、どういうことなのか
なにかを表現するということは?


敬愛する画家、東山魁夷は「京洛四季」のなかで
書いてます


京都とは、何か。もっとも京都的であった平安の遺跡は
何もないではないかと言われても、画家である私は
平安の息吹をも、京都から感じとることができるのである
今日の山々に棚引く霞から、その空気の潤いから
京都をめぐる自然の季節の変化から、あの平安朝の
美の世界を描いた不朽の物語や、あの時代の盛りを
生きた、才女の随筆のなかに、美しい絵巻となって
繰り広げられている情景を今も見る思いがする


画家は、一般人とちがうアンテナがあり
東山魁夷がいうところの、京都のいくつかのことが
それにふれて、表現へ結び付くものとなって、東山の
なかで、昇華するのだということでしょうか


棟方志功は、自分は自分の絵に責任がもてない
ということを、言っていたと聞きました


これを聞いた、柳宗悦が、自分で責任をもてないという
のは、「無責任」ていうことにつながるようなことでは
なく、自分ではなく、神仏が支えてる、神仏が受け取る
なにかになってると、解釈すると言うことを言っています


ここで、安土桃山に活躍した、長谷川等伯を書いた
安倍龍太郎は、その小説のなかで、等伯が、松林図を
描いた、描けたのは、なにものか、自然とつながってる
仏といっていい存在が、等伯にのりうつり、描かせたもの
という流れで、その天才ぶりを、表現しています


棟方志功は、神仏と、自然と、他人と分け隔てなく
交流、対話することができたのではないでしょうか


だから、子供の純真な姿のなかに、仏をみつけ
自分の愛する者のなかでに、なにかを感じ
描きつづけたのではないでしょうか


画家は、美を追い求めて
それを表現するもの
その、美を追うということを、人生そのものと
して、生きるということ、ですか


人生とはなにか、いまだ、もちろん
迷うなかで、こういう書き方はそれこそ
責任のない、ところの、描き方かもしれないですが・・