民藝から、アートの話

民藝の聖地といっていい、富山県
福光の話を、柴田雅章さんとしました
光徳寺には、民藝館の看板が掲げられていて
世界各地の民藝のもの、とくに「イス」が
ありました


福光を愛し、福光に暮らした、棟方志功について
アートのなにかしらが、ほとばしりでるような
なにかを、感じる、そんな話をしました


棟方志功、自分で自分の作品には責任がもてないと
言ったといいます。その言葉を聞いて、柳宗悦
本人が責任を持てないといったと言ったから、それは
無責任、ということにつながることではないのだと
言います。それは、人間がなにかするということを
超えた、いわば、神仏がひきとる、神仏が描いてる
と思える、そういう世界につながってると、説明した
と言います


ここで、つながっておもえるのが、福光にお邪魔したあと
東京都庭園美術館にて、昨年行われた、ブラジル先住民のイス
という展覧会です
いす、そのものがいいのですが、その造形、いす自体の
よさの話は別にゆずりたい。解説に、いすにすわる人は
いってみれば、一般人でなく、地位であり、存在自体が
一段高い人と、思われると、書かれています


地面より一段高いところにいる人。それは人間と神との
間にたつ人という言い方もできるかもしれません


そういう存在である、シャーマンは、歌やおどり、また
アルコールやたばこにより、トランス状態を作ります
そのなかで、祈りだったり、神事を行うのです
そういうことを、解説で読みました


棟方志功が、神が宿るように、絵を描いたとしたら
まさにトランス状態を作っていたといっていいように
想像しました
そして、人間は、ある表現を生み出すだとか
スポーツでいうところの、ゾーンにはいるという状態が
あるから、自分のもってるもの以上のものがだせて
それは、成長へのスパイスともいえる、なにかだと
感じるのです


燃焼系といっていい、アーティストが世の中に
います。燃焼、というか爆発かもしれません
自分のなかの、表現したいなにかが、ほとばしり
ときに肉体をこわして、表現の力の強さがでてしまう


こわいことですが、アートはそういう力ももつ
そういうことかもしれません