棟方志功を見る

描いている映像が残っています
描いてる、彫ってるということ
棟方本人が、なにか描こうというのではない
板にあるものを引き出してる、というのですね


ゾーンに入るという言い方があります
テニスの試合などで、いわゆる火事場のバカ力といった
力がでるような、人間がトランス状態になっていく
といった、そういうような場合に使われる用語です


このゾーンにはいるということが、棟方は、板を前に
したときに、自然とできたということなのでしょうか


一見、いたずら書きのような、文字、絵が躍ります
ですが、見ていると、そのエネルギッシュなものに
惹きつけられていくといっていいと感じます


例えばルネッサンスのフィリッポ・リッピだの
ボッティチェリだの、自分の愛人の顔を描いた
(女神のはずのところに、そうしたものを描いたことで
センセーションを起こす)ということはあるのは
知っていますが、おそらくは棟方の描く、女性の姿は
奥さんがモデルなのでは・・・と思います
その証拠といってはなんですが、今回生誕120年の
展覧会にあわせて、テレビなどにでてきますが
孫という石井頼子氏は、棟方の描く女性像に
似ています


よく知られてる話として、このいたずら書きのような
大和しうるわしの、絵(文字)をみて、柳宗悦
ひとめで気に入り、認めたという話があります


河井寛次郎は、そのときの展示で、棟方志功
気に入りそのまま京都の自宅に連れて行って、もてなした
という話もあります(不忘の記 河合須也子(河井寛次郎の娘))


どうも棟方志功は、そうして、人と出会う
人のつながりを作るというか受け入れるのが、うまい人
というようにも見えてきました


おそらく絵を描くのが好き、それもずっと
好きっていう人には、ゾーンにはいるように、絵を描く
描けるというのは、ある意味、あこがれといっていいのでは
ないでしょうか


そうした、自分が全身全霊をかけて、描いたという絵が
人々のなにかに、伝わっていく、響いていくというのは
どんな気持ちなのでしょうか?もちろん、うれしいことには
違いない。そして、前よりもいいものを残そう、描こう
という意欲がすごいのだと、想像できます


絵を描くということ。美に相対して、自分の世界の美
ということを、追い求めること。すごいと思います
またあこがれもします
決して、妥協のない、生き方といっていいでしょう
棟方志功の追い求めたものというのは、実際、宗教の
周辺で「祈り」ということに添った、なにかだったのでは
ないか・・・そんな想像も楽しいです