アートをみる、つなげる

千住博 「私が芸術について、語るなら」


この本に、千住は美しいと思ったこと、なんとか
表現したい。そのことが、芸術的な行為のはじまりだと書きます


子供が、石を拾って、美しいと思って、親にさしだす
雲をみて、その美しさを誰かにいいたくなる
こういったことが、はじまりだといいます
その気持ちを育て続けて、伝えられるようになっていく
それが、アートをやっていく基礎になると、書きます


子供は、きっと最初誰もが、芸術家、正確には芸術家の卵
といっていいのかもしれません。心ない大人がその芽を
つぶしているといっていいのかもしれません


アートを楽しむということは、伝えたい、伝えようという
その芸術家の気持ちを受け止める、キャッチボールと
言っていいのだと、感じます
だから、人間が10人いれば、10通りの生き方があるように
アートに、表現のしかたは、その芸術家の数、いて
それぞれ、ちがうのだと言えます


だいぶ、まえになりますが、美術館に出品されてるような
芸術家の作品をみて、こちらがいいなとか、素晴らしいと
思えないのは、見てる自分のその見る目がないのだろうと
思って、苦しかったことがあります


いいえ、そんなことはなくて、たとえば、40人のクラスに人が
いたら、それは気の合う人もいれば、合わない人もいるのと
そのままで、絵をみて、作品をみて、自分のなにかに響く
ものを感じるときと、感じないときがあるのだと、知りました


そして、誰かが、ときには作品が、橋渡しをしてくれて
最初目にしたときに、響いてこない絵が、あることをきっかけに
して、心に伝わってくる、響いてくるということがあるようです


ここ数年でいえば、私にとっては、棟方志功がそうです
あの、荒々しくも見える、タッチ、迫力といったことが
また、本人がテレビに登場したときの、風采というか
話し方、見た目ということが、邪魔して、作品そのものに
なかなか迫れなかった。


福光という、棟方志功ゆかりの地にて、その描いてる姿を
みていたという人と話したりして、また「版画」ということ
自体に興味をもてることがあったり、いろいろで、棟方志功
近づいて行けました


釈迦十大弟子という、棟方の作品があります
解説に、これは十大弟子を作ろうとして、やったのではなくて
人間はこんな顔をするという、気持ちで作っていって
あとで、10大弟子にあてはめたのです・・・


こうした、とらえ方が、まさに生き方もそうのでしょう
棟方志功の魅力といっていいところなのではないか
そんなふうに感じることができました


棟方志功を、近づけてくれたのは、福光の人であり、柳宗悦であり
信州でみかけた、棟方志功の足跡でした


アートは、ひろがっていく
アートは、こちらのうつわがひろがれば、はいるところが
また増える。うれしい感覚でした