京都とはなにか

京洛四季 東山魁夷 より


京都における私は旅行者である。京都に生まれたものでも、
住人でも、また、研究者でもない。旅人であるために、私
は自由で、身勝手な感じ方、味わい方が宥されているので
はないか。京都とは何か。京都がもっとも京都的であっ
た平安の遺跡は何も無いではないかと、言われても、画家で
ある私は、平安の息吹をも、京都から感じとることが出
来るのである・・・


この文章に最初にふれたとき、画家である私は・・・出来るので
あるのところ、画家でない自分、そして、画家のもつ、アンテナ
といっていいところに、あこがれこそすれ、そうした
才能に程遠い、自分を思ったときに、おそらくは
京都で東山魁夷が感じたような、京都的なもの、平安の息吹
といったことは、感じることはないだろうと、思いました


小倉山のふもと、俳優、大河内伝次郎が作ったという
大河内山荘の坂を歩いていて、見える、比叡山、視点を
近くにして、仁和寺の塔、大文字焼、東山の峰々
この山の稜線は、大河内伝次郎が、いいえ、江戸時代
室町、鎌倉、平安の世の貴族も、愛でた稜線そのものなのだ
ということが、自分の気持ちにふっと沸き起こったとき


東山魁夷の、「感じとることができる」という心の動きに
似たものが、自分にもあるんだと、小さな感激を覚えたのです


いいものは、いいのだ
きれいなものを、そのまま愛でる
そういう素直で、まっすぐな気持ち
こういうことを、自分は、いかに忘れているか


街の中で暮らして、なにかと忙しいという感じで
動き回っていて、自分の心と向き合う時間というのが
足りないのではないか


今年は、いろんな理由で、家にいることがふえて
否応なく、自分と向き合うということに、どうしても
ちょっとは、なると、感じるのです


自分とはなにか
自分は、生きていて、どういう存在、いわばアイデンティティ
として、どうなのか?
人を育てることに、人生をかける、などと、しゃべったりして
いるが、その覚悟のほどは、どれだけのものか?


自問自答は続くのです
学ぶこと。トレーニングすることで、いろんなことが
できるようになる。そうしたことは、わかっていても
なかなか、毎日のトレーニングって、やる人は少ないものです


学ぶことは、しんどいところもあるのですが
楽しいと思えるときもあるのです
学びが、学びを呼びます
学んでいて、興味がわいたことを、学ぶ
次の興味がわく。
こうしたことが、あたりまえに、誰にでもできる
そういう「場」としての、システマーズ
イメージが浮かびます


忙しいのは、素晴らしい
だけど、忙しく、自分と向き合うのをさぼるのでは
本末転倒。
今年のこの特別な時間を、自分であり、当社も変わる
きっかけにしていきたい