数十年、いいえそれ以上、しまわれていた、種があります
その種に、適度な土、太陽、水を与えてやると
芽をだし、花を咲かせることができるのだと、いいます


このことを、信じています
人間にもあてはまることを、信じています


人はみな、ほぼ100%、不完全な人ばかりです
だれしも、だめなところとか、もってるもの
そのだめなところ、もしかしたら、育ちそこなったところあるとして
その部分が、いわば、しまわれた、種のように、なってると、考える
わけですね
そして、種に水と太陽と土とあるような
人間にも、育つべき、栄養分を与えれば
その足りてないところが、芽をだし、しっかり育っていけると
言います


育つ、という意味では、自分が育ちたいと思ってるということが
大前提としてあります
いつも、いつも思うのは、育ってほしいと思う
そのためには、コミュニケーションを厚くするのが、基本の考え
そして、コミュニケーションのおおもと、傾聴ということに
考えがいきます
傾聴、そうです。傾聴するという自分自身は、どこまで
相手のことを、受け入れる、そういう器があるのかという
反省、そういう、姿勢が要ります


ここまで、くると、育てたい、そのためになんらか指導したい
その指導する、自分自身・・・と思い、考えがいたったとき
じゃあ、そういう育てるということを、するのなら
自分の人生をかけて、やる仕事じゃないかと、思い至るのです


このまえの日曜日に、見た、日本画家、不染鉄の、回顧展
絵をみていて、繰り返し、思ったのは、画家は生きている証として
絵を描いていて、不染は、ふるさとを求めてるということ
それが、不染の、生きたこと、そのものと思えたということ
なんですね


人は、生きてるなら、なんらか、意味のあることしたいと
思うのでしょう
そのとき、絵を描くということも、人を育てるということも
ずっとずっと、先の部分では、つながっちゃうのですよ
それは、真実を追いかけるという、行為において
どう生きるのか、自分のなかの器をどうやって、ちょっとや
そっとでは、こわれない、また、ある程度、なにかを
いれられるような、スペースを用意するように、生きる
そういうことを、思います


自分のなかに、種があって、その種が芽をふいて
育つように、生きたいとも思います
日本には、「道」のつく、世界がいくつかあります
できれば、そうした道を歩む人に、負けない、自分の中に
継続する、心、力を持っていたい